窓を開け放つと、まばたきするより速くわたくしの鼻孔に漂い入るものがございました。
朝のけがれない外気を彩るその香りは、またたく間にわたくしを幸福で満たし、秋であることを知らせてくれました。
目に見えない幸福という価値観は、同じく目に見えることのない香気によってもたらされることもございます。
さぁ、今年もあなたとのかくれんぼが始まります。わたくしが見つけるのが先か、それとも、あなたがどこかへ去っていくのが先か、ひとつ競争とまいりましょうか。
ねぇ、金木犀。
街中を満たす金木犀の香気のように、お屋敷にお帰りになるお嬢様方が、ささやかでも幸福に満たされますように。
伊織でございます。
気温が急に下がるとともに激しい風雨に見舞われ、華奢な金木犀の花が早々に散ってしまわないかと心配でなりませんでした。
これから冬に向け、庭や街路の彩りは乏しく、また華やかな香りに出会える機会も少なくなります。
明るい色で目にも楽しい木犀の類が今しばらく咲き続けてくれたなら、幾分かは寂しさもごまかせましょうに。
散歩道でかいま見る庭々でもなかなか見ることができない、非常に鮮やかな実をつける植物がございます。
その名の通り明るい紫色のちいさな実をつける木で、紫式部と申します。
幼少の時分に口にした菓子のような小粒の実は、緑の皿の上で肩を寄せ合い、重なるようにして実っております。幼い頃に目にしていたなら、きっと菓子がたくさん盛られているのだとはしゃいだことでしょう。
ただ、紫式部と申しますと一様に多くの方が思い起こされるのは、源氏物語の作者、紫式部でございましょう。
作家としても有名ではございますが、歌人としても名を残した人物でございます。
ひときわ耳なじみのあるものとしては、小倉百人一首五十七番に入選しているこちらの歌ではございませんか。
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな
久々に会ったあなたが、本当にあなたかどうか確かめる間もなく去っていってしまった――まるで雲に隠れる月のようですね
そんな意味合いの歌でございます。
この秋、紫式部の歌のようにならない事を祈るばかりです。
ようやく会えた金木犀が、顔も見ぬ間に去っていきませんように。
あなたとのかくれんぼを、もう少しだけ楽しませてはくれませんか――金木犀。