拝啓、我が敬愛せしお嬢様、真夏を思わせる暑い日々が続いておりますが、ご健勝にお過ごしでございましょうか。
先日までまだ桜が舞っていたような気が致しますのに、何とも季節の巡るのは早きことにございます。
過ぎた季節に驚いてしまうほどに、忙しく充実した日々を過ごさせて頂いているのかと思うと、有難き限りにございます。
季節の移り変わりも、世俗の流れも、人々の移ろう様も誠に慌ただしい事でございますが、私共はいつでもお嬢様方がサロンにお戻りの際にお寛ぎ頂けますよう、
サロンを磨き、カップを磨き、人を磨き、万全の備えでお待ち申し上げております。
この身が御傍に在れる限り、僅かでも御役に立てますように。
それはそれと致しまして。
またつらつらと駄文をしたためてございますので、お暇なときか眠れぬ夜にでもご覧くださいませ。
目を閉じ羊を数えるよりは、迅速に眠りに墜ちれるのではないかと自負しております。
東欧の陰深き森の奥。
人里離れた地に密かに棲まう、ヴラドの名を名乗る城主の元へと訪れた私こと時任と服部は、大旦那様のご下命を果たすべく、森へ迷い込んだ来訪者を装い、潜入調査を始めようとしていた。
服部「ところで此の任務、時間外手当は出るんですかな?」
時任「…時間外労働は法律上、1.25倍の給金でしたね。宜しい。…私から諏訪野執事に申告しておきましょう。」
服部「おぉ!?言ってみるものですな。」
時任「…フットマンの月給は30円ですから、38円になりますよ。良かったですね。」
服部「と、時任執事。『最低賃金』って法律も参照して頂けますまいか?」
だが。
まるで先触れがあったかのように知られていた、私達の来訪と身分。私達は、完全にアドバンテージを取られた形のまま、奇妙なる歓迎を受けつつ館の客人として滞留することとなったのだ。
館で待ち構えていたのは、一癖ならぬ棲人たち。
不気味な老執事。無表情な人形のごとき女給。残酷な無邪気さが見え隠れする、天使とも悪魔ともつかぬ少年。
大旦那様と同じ容貌、同じ笑い方や仕種をなさる、銀の髪と紫の瞳を持つ老主人。
そして、あの奇妙なる応接間に飾られていた、銀の瞳と紫の瞳を持つ異貌の一族の肖像画…その中に見つけてしまった、月下で微笑む少女の絵画。
そう、かの御方。我が仕えし”お嬢様”に鏡写しの肖像画だ。
幾多の不気味な符号を抱えながら、私はこの不本意な逗留を強いられる此の屋敷の中で、未だ感じたことの無いような焦燥と絶望に駆られながら、、、
、、、埃臭い書庫の中で、チェスの戦略を練りつづけていた。
それは気の遠くなるような際限の無い、そして希望も見えない作業だった。
書庫いっぱいに広がる手書きの棋譜。人が一生涯をかけても書ききれるとは思えない膨大な量のそれは、人の思いつく限りのあらゆる攻め手を網羅し、その返し手から完膚無き逆転までのプロセスを記した完璧なまでに無尽蔵なる記録であった。
私は自分の脳内迷宮の狭間から、過去に実行したあるいは考案した、ありとあらゆる戦略を引きずり出してきては、それと寸分違わぬ攻め手の棋譜を発見し、変色した黴臭い紙に記された記録の上で、過去に自信を持って組み上げてきた戦略の数々を、完膚なきまでに破られて屈辱的な敗北に至るまでの記録を見せ付けられていたのだ。
それは例えようもないほど苦痛を伴う、奇妙なる調べものだった。
己の矜持を伴う戦略を脳内から引きずり出してきては、どうか見つかるな。どうか存在してくれるなと祈り願いつつ、埃をかぶった棋譜の紙を一枚また一枚と、数百・数千という単位で調べていくのだ。
見つかるなと乞い願いながら行う調べものとは、なんと矛盾した行動だろうか。
見つけたくないなら調べなければ良いのに、この戦略だけは、この戦術だけは真逆に思いつくまいと希望を賭け、存在するはずがない在ってくれるなと呪詛のように唱えながら繰り捲ってゆく羊皮紙の中に、己だけのものと自負と矜持をもっていたものと瓜二つの戦略を発見しては絶望し、そして淡々と綴られている棋譜を読み進めては、返し手も思いつかず、紙上にある棋譜のままに抗うことも出来ず、想像上の盤面は私の無様な敗北へと向けて崩れ落ちていくのだ。
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『Nc4』(黒のナイトをc-4のマスへ進める)
『Lxa2』(白のビショップをa-2のマスへ進める)
『Th4』(黒のルークをh-4のマスに進める)
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左右の『騎士』を散開させている様に見せて、急遽敵陣前の中央へと引き戻し、制圧圏を得た中央のエリアに、本来守備に在るべき『城壁』を突進させて敵陣を突き破る、私の得意とする奇策『岩戸湾の海戦式ポールダージュ戦法』も。
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『Nb6』(黒のナイトをb-6のマスへ進める)
『D-c6』(白のクィーンをc-6のマスへ進める)
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突然に戦場へと守護天使が降臨したかのように、盤の端から大胆に『騎士』たちの目前に出現した『女王』が、見事に2体の『騎士』の駒の動きを封じ込め、『城壁』の突進力を失わせる。
他の作戦に逃れる余地も無く、敵陣を貫くはずだった『城壁』はわずかな『兵士』を討ち取っただけで破壊され、『騎士』は『女王』に完膚無く制圧圏を奪われて情けなく盤上を逃げ回るばかり。
そのまま、なす術も無く自軍の『王』の駒が討ち取られるまで、精密に記された棋譜は続いていた。
100度・200度と、紙上の棋譜に打ちのめされる敗北劇は続く。
あの老主人の、樫の小枝のごとき指に、私の『王』の駒が摘み取られる光景を、何度幻視したことだろう。
どうやら、認めるより他に無いようだ。あの老主人に勝利できる手段などない。
なぜなら、あの老主人は幾星霜にも及ぶ呪われた永劫の時間を、この遊戯版に捧げ、ありとあらゆる戦略を打破する術を網羅してしまったのだから。
退屈という苦痛に、倦怠と言う呪いに蝕まれ続ける呪われた時間を、悲鳴を上げて苦しむ代謝のように、運命に対する呪詛の叫びのように、この黴臭い小部屋で遊戯盤上の世界を極めることに捧げてしまったのだから。
我が主、大旦那様よりの下命を受けてこの地を訪れている以上、勝てぬからと言って勝負を避け逃げ帰ることは有り得ない。
なれば、潔く散るほか在るまいか。
そう結論付け、最後の未練のように、もう1人の主である方の可憐な笑顔を脳裏に浮かべたその時。
――…ひらり。
粗く厚く重い羊皮紙の間から舞い落ちた、軽やかな薄羽のような紙片。
無為に、ただ機械的に繰り続けていた、変色した羊皮紙の束の間に、一枚の便箋が挟まっているのを見つけた。
そこに走り書きされている、ややインクの滲んだ流麗な字体は。
「…何故、ここにこんな物が…?」
見紛うはずがない。他の誰が間違えても、この私が見紛うはずもない。
我がもう1人の主、お嬢様の筆致と寸分違わぬ字体が、便箋の上に描かれていた……――。
◇ ◇ ◇ ◇
その半刻ほど前のこと。
記憶の迷宮をさまようように、僅かに時間を戻して語ろう。
私が必死に勝算を探りにかかることとなった、その経緯の回想のために。
「ささやかながら、晩餐の用意が整いましてございます。ホールへとお越し下さいますよう。」
服部に、引き続きの裏方からの捜査を依頼し、方策を練るべく思案に更け込みながら廊下を歩んでいた私へと。いつの間にかそこに立っていた女給はそう告げた。
いや、余りに無表情に、無機質にそこに立って居たので、私がその存在を認識しないまま傍らまで歩み寄ってしまったというだけの事だろう。
館のいたるところに飾られている、鋼の鎧人形や彫像と同程度の気配しか、この女給からは感じ取れなかった。
「それでは、ご案内差し上げます。」
くるり。すたすたすたすたすた。
機械的なまでに律動的に、女給は振り返り、私を先導して歩き始める。
無表情については人の事を言えた筋合いではないのだが、もう少し愛嬌とは言わないから生気を持って欲しい物だと、内心に呟きながら女給に連れられて、屋敷の中を進むと。
屋敷の中二階に当たるのだろうか、メインエントランスから短い階段を上がった先に、大きな窓の開けた広々としたホールが存在していた。
広々としたホールには皺一つないテーブルクロスのかけられた長机が設えられ、並ぶ燭台の間には早くも冷菜の盛られた銀皿が並び始めている。
あの老主人は既に長机の一角へと着座し、笑みを浮かべて晩餐の始まりを待っていた。
その傍らには、小柄な背中を更に小さく丸めた老執事が、ワインのボトルを捧げ持って立っている。
…よかった。持っているのがティーポットだったら、本気でUターンを考えるところだった。
「…遅参したようで申し訳ありません。」
私が詫びると、老主人は鷹揚に微笑んで、席を勧めるように手を差し伸べて言った。
「なに、こちらも奇妙な時間に突然にお招きして申し訳ないと思っていたところですよ。」
どちらかというと私も、あの老執事のようにテーブル端に立ち控えるのが相応しい立場なのだが…と躊躇もしたが、現在は招待客の立場。堂々と振る舞わねば却ってお家の恥となると、悠々と示された席に着座すると、それを待っていたかのように老執事がゴブレットにワインを注ぎ、女給たちが料理の皿を並べ始めた。
「…私たち二人だけなのですか?」
長机にはまだ無数の空き席があった。
にも拘らず二人だけが腰掛けた状態で始まった晩餐に、私が疑問の声を投げかけたが、老主人はそれにも笑みを返すだけで、淡々と晩餐は進められようとしていた。
正直、あの数百年分ぐらいありそうな棋譜の山を見た後では、鷹揚に見えていた老主人の笑みが得体の知れない何かのように思えて恐ろしい。
色彩や白髭を除けば、大旦那様と寸分変わらぬ姿なのだから増してや…というものだ。
もう一度、笑顔のまま、食事を勧めるように老主人の手が振られる。
促すように掲げられたゴブレットに応えないわけにもいかず、私も手元のゴブレットを掲げ、目礼してグラスを口元にて傾ける。
ゴブレットは銅製だろうか。実に精緻な彫金の成された重厚な品だ。さぞ名の知れた彫金師の一作なのだろう。
そんなゴブレットの中から、私の喉へと滑り込む液体を感じた瞬間、私は噎せ返りそうになった。
芳醇な赤ワインにはとても適した、生ぬるいぐらいの温度。舌に絡みつく味わいと香りの良さを残して、その液体はどろどろっっと私の喉を潜り降り、若干の生臭さをスパイスとして私の身体の隅々にまで染み渡った。
口の端に隠した牙が、歓喜に激しく疼く。
「お味は如何ですかな?お気に召して頂けていたようなので、より現地の味をお楽しみ頂こうと用意したのですよ。」
老人が、此方も口内を紅く紅く染めながらゴブレットの中の液体を含み、そして口の端を上げて大きく微笑む。
口の端に覗く、紅い雫を滴らせる鋭い犬歯。怪しく輝く紫の瞳。
…もはや、お構いなしか。
口元のゴブレットで表情を隠しながら、私はもう一度ゴブレットの中の赤い液体を煽り、老主人と微笑を交わしてから談笑に掛かる。
「・・・しかし、このお部屋…エントランスのそばに来賓用のホールを備える屋敷は多うございますが、階段上に設えるとは中々のアイデアですね。
…窓から庭園が一望できて、実に優雅なディナー演出できそうで、羨ましい限りです。」
「この地には昔からこういう構造の邸宅は多いそうですよ。
ええ、ディナーなら星空も楽しめますし。庭園を眺めるにも良いですな。」
確かに、窓と言うものが異常に少なかったこの屋敷にしては、これだけの大ホールの壁一面が窓と言うのは圧巻に尽きた。窓辺の上辺は天頂に至り、窓越しには夜空が美しく広がり、仄かに咲き誇る星はその中央にて白鳥の形を模していた。
「…白鳥座がこの時間に在るとするなら、こちらが東ですか。」
実に良い構造かもしれない。朝食の席に爽やかな朝陽が燦々と降り注いでいれば、ねぼすけな我がお嬢様でも、少しは爽やかにお目覚め頂けるような気がする。
…私は死んでもその給仕は勤められないというか、勤めたら死ぬ目に遭いそうだが。
「そう。夜空を見上げるには大変よろしい場所ですし。」
我が意を得たとばかりに頷いて、老主人は言った。
「朝ともなれば、余す事無く輝く朝日が部屋中を照らしてくれますよ。」
…その光景を想像するだけで、何か肌がピリピリしてくる気がする。
眉をしかめてそう思ったところで、ふと、とある疑問が心を過ぎった。
彼が私の同類だとするならば、彼も朝陽はさぞお嫌いなことだろう。
ならば、なぜこんな部屋を作ったのだ?
…夜空を眺めたいからか?なれど東向きである必要はあるまい。
…この屋敷を建てた後に『転んだ』のだろうか?…いや、『新米』には見えないし、第一立て直すぐらいの事は出来るだろうに、この窓には薄手のカーテンが畳まれているだけで陽光を遮る術すらない。
そんな私の疑問が伝わったのだろう。
老主人は益々、上機嫌になり、軽く手を叩くと。
女給たちがやはり無表情に、がらがらがら…と。重そうな巨大な何かを滑車で運び込んできた。
それは、円卓だった。
鋼の塊から削りだされたような、繊細な細工を成された、重厚な鉄塊だった。
円卓の大きさは、大人二人程度が向き合えば丁度良いぐらいで、その用途をわかり易く伝えるかのように、円卓の上にはチェス盤と一揃えの駒が既に用意されていた。
「…遊戯用のテーブルですか?しかし、これは…?」
しかし、此れをただのテーブルと呼ぶには、奇妙なオブジェが余分だった。
テーブルの脚から1対。鉄製のテーブルと直に繋げられる形で設えられている一対の金輪。
見た所、明らかに…一対の人物をテーブル側に捕らえておくための足環だと思われた。
「遊戯に慣れている方は、説明が楽で良いですな。」
小さく拍手まで交えて、老主人は言った。
キリキリキリ…と軋み音を立てて車椅子を駆り、その机の傍らまで進み出て愛おしそうにテーブルの端に手を触れる。
「チェスの勝負は楽しいものです。これはそれに付随した演出道具に過ぎませんよ。」
「…演出道具ですか?」
何気ない態度でそう応えながら、私は老主人の目を眺めていた。
「そうですとも。何、単純なことです。チェスを始めましたら大儀なことですが、こちらの足環を付けさせて頂きます。もちろん私自身にも。」
説明の補助をするように、女給がじゃらり…と重い音を立てて鉄輪を持ち上げ、錠をかけてみせる。
がちゃんっっ!と重厚な音を立てて閉ざされた鉄輪は、どうやら少々どころの力では外すことは難しいようだ。
「チェスに決着がつきましたら、勝者に鍵をお渡ししましょう。
勝者はその余韻を楽しみながら、我らが安住の闇でお安らぎ頂けます。
そして敗者は、、、ホンの些細な敗北の代償として、そのまま朝陽の日光浴を楽しんで頂くわけですよ。」
「…かつて、ロケットの噴出口で同じゲームを行った狂人が居たと仄聞いたしますがね…。」
楽しそうな笑顔で説明する老主人の瞳は、私を見ているようであるが、実はそうではあるまい。
あの、耐え難い火照りのような熱気を帯びた、だが凍てついた毒素のような歪みを帯びた瞳を私は知っている。
あれは、静かな夜の終わりに、私が分厚い黒カーテンの向こうから、朝の光景を眺めるときの瞳だ。
朝陽を浴びながら、寝ぼけ眼で挨拶を交わし、頭をあげた花々を愛でる人々を、遠くから眺めるときの瞳だ。
決してもう届くことのない何かに手を伸ばし、憧れ求め渇望し、そして届かぬことを誰よりも理解してしまっている者の目だ。
「ははは、どうやら。実に。実に楽しい晩餐となりそうですな。期待しておりますぞ、東洋の執事殿。」
楽しそうに、楽しそうに嗤う老主人の姿に重なるように、わが主の姿が幻視される。
旅立つ前に、大旦那様に仰せつかった言葉が蘇る
『あの館の主人はな・・・時任、オマエの同類だよ。』
「……私と、この男の求めているモノが同じだと申されるか。我が主よ。」