わが敬愛せしお嬢様。
紅葉が始まり、葉が黄緑色の美しい色合いをつけ始める良い時期でございます。
こんな時期は、庭園でのお茶会も良いのではないでしょうか?
さて。
相変わらずの駄文でございましたが、先だって大旦那さまから奇妙な仰せを受け、欧州に飛んで参りました。
その時の逸話をお届けしようと思い、筆をつづっておりましたが。
長くなりすぎて諏訪野に怒られました。
ついては、数週ほどに分け、拙い文ながらあの奇妙な一夜のお話を届けたく存じます。
どうか、お暇な時にでもご覧頂ければと存じます。
◆ ◆ ◆ ◆
長く長くステンド越しの光が、広い広い床に伸びる、瀟洒な執務机が一つ置かれ
ているだけの部屋。
「時任に命ず。ルーマニアへ飛べ。」
お屋敷の最も奥深き、私たち執事とて専属の者以外は滅多に伺うこと無き大旦那様の執務室。
急なお召しに参上した私へと授けられた大旦那様の仰せは、簡潔かつ唐突だった。
「○○地方某村近くの山間に屋敷を構える、ヴラド公を名乗る老貴族を訪問し、書状を届けよ。現地での詳細は判断に任せる。」
…大旦那様のご指示が唐突なのは、いつものことだ。しかし、私こと時任が使い
に出されるのは珍しい事例だった。
慣例的に時任はお屋敷を離れることなく、対外的な役割は大旦那様付きの金藤や、セカンドスチュワードたる各務が勤めることが多く、彼等の手が塞がっている訳でも無いのに私がお屋敷を離れるというのは些か不自然な仰せであった。
当然、大旦那様の深謀を私共などが読み切れる筈もなく、無言で仰せを承り退出するつもりであった。
だが、私の中の疑念を見抜いておられたか、退出すべく扉へ向かった私へと、大旦那様はこう仰せになられた。
「あの館の主人はな、時任…。」
深い威厳を湛えた口元が、このとき悪戯めいた笑いを浮かべたように思えたのは、私の気迷いだろうか。
「おまえと同類だよ。」
意図を読み切れぬ大旦那様の深い視線に、視線だけで黙礼を返し、私は旅仕度を整えるべく退出した。
◆ ◆ ◆ ◆
鬱蒼とした暗き森で、なお陽光を求めて足掻いたのか、複雑にねじ曲がり絡み合
って伸びる樹々。
グリムのお伽話にでも描かれそうな、怪しげな森を延々と歩み続け、漸く樹々の間に見つけ出した暗い巨影。
長旅の果てにたどり着いた、山間の古城は、灰色の積み木で造った城がそのまま苔むしたかのように、実に陰気な外様の石造りの館だった。
陽が傾いたこの夕暮れ時はもちろんのこと、日中すらあまり日が差さないであろう闇深い森の奥、鬱蒼とした影と同化したような館。
陽が無いのは私にとっても有り難いことだが、如何せん人里からのあまりの隔絶ぶりには辟易とした。
最後に人と会った地から、幾つの山を分け入ったことやら。
車で踏み入るには山林が険しく、いっそヘリでも飛ばそうにも前述のように山間に溶け込んで入るため発見が難しく、おまけに着陸する隙間も見当たりもしない。
かくなるして、やむを得ず私は、地元の猟師の助言と当てにならない古地図だけを頼りに、暗い森の中を彷徨った果てにこの館へと辿り着いた訳だった。
「…やれやれ。」
ため息を漏らして、草露に濡れた外套を払い、苔むして大地と半ば同化している石段を踏み、館の扉へと進む。
悪魔めいた山羊を模ったノッカーに苦笑しながら、その鼻面に下げられた鉄輪を握って数度ノックすると、重く重く地の底へと響いて行くような音が木霊を伴い鳴り渡り、地獄への扉をノックしてしまったような不安感が沸き上がることにまた苦笑してしまう。
程なく。
怖気を誘う不快な軋みと共に扉が開き、開いた隙間から老人が姿を見せた。
粗末な木綿のシャツの上に、申し訳のようにフォーマルな黒ベストとタイを纏った老人は、この薄暗い中でランプすら携えず、ほんの僅かな外の光すら疎むように眉をしかめて眼前に掌を翳している。
「突然の訪問、失礼致します。私は東の御家に仕える者にて…」
私の挨拶と名乗りを遮り、老人は私を身振りで扉の中へ招き入れると、いささか乱暴に扉を閉めて神経質なまでの施錠を行っていた。
重い音を立てて扉が閉じると共に訪れた闇の中、流石にどうするべきかと戸惑う私をジロリと見上げ、老人はおもむろにくすんだ色の燭台を手に取り、蝋燭に火を点した。
真闇だった室内にほのかな明かりが点る。
欄干に精緻な彫刻のなされた階段。
品良く整えられた、柔らかな絨毯。
部屋の隅に鎮座する、有翼の獣を象った石像。
やや古びた感は否めないものの、典型的なお屋敷のエントランスがそこにあった。
ただ、当家のエントランスと違い、ここには咲き誇る深紅の薔薇も飾られていなければ、明るく周囲を輝かせるあの笑顔も存在しない。
やれやれ。
あるはずがないと解っていても、あの輝く笑顔を求めて無意識に視線を巡らせていた自分に呆れて苦笑が漏れる。
私が「輝き」を求めるとはねぇ…。
「…でございます。」
おそらく、皮肉な笑いを浮かべていたのだろう私へと向けてランプを掲げ、老人は不審そうに目をすがめてながら私へと言葉をかけていた。
「あ、失礼…なんと仰られました?」
表情を取り繕い、問い返すと老人は呆れたような表情で、重ねて告げてきた。
「応接室へとご案内申し上げます。旦那さまが到着をお待ちでいらっしゃいましたよ?」
・・・。
一礼を返すだけに留めて、背を向けて歩き始めた老人に続き、私はエントランスの階段を上がり始める。
老人の掲げるランプが揺らぐたびに、陰影が踊り、部屋の隅々に飾られた悪魔めいた像たちが嘲笑しているような印象を与える。
暗いエントランスに響く足音に紛れさせるように、私はそっと口を開き、前を歩く老人にも聞こえない程度の囁きを紡いだ。
「…ついて来ていますか?」
すると、耳元にかすかな感触があった。
小さな虫…蝶だ。
私の肩にそっと止まり、蝶とは思えぬような羽の震えを見せたその蝶の羽から、やはり僅かに囁くような青年の声が聞こえてきた。
「服部なればこれに。ただいま天蓋から御身を見ております。」
「…安心しました。貴方に同行してもらったのは正解でしたね。」
ふと上げた視線に、天窓の端から場違いなピースサインを返してくるのは、精悍な笑顔の青年…服部。
今回のお役目に不審を感じた私は、隠密の技術を持つフットマン・服部に同行を頼んでいたのだ。
「…それにしても見事な蟲術。隠密の技というのも便利ですね。」
「ええ、このまま時任執事の耳元に熱い吐息を吹きかけるも自在ですとも。」
「…この遠き異国の土に埋めますよ?」
軽口はともかく、私は囁きで服部に指示を飛ばす。
私の到着はもちろん事前に知らせてなどいない。なのにこの館の主人は私を待っていたという。
「…想定以上に裏が読めないお仕事です。服部、このお屋敷と周辺の状況を可能な限り探って下さい。…夜にまた落ち合いましょう。」
「了解いたしました。夜に寝室ですね?」
「…なんかヤダから外でお願いします。」
敬礼を一つ残し消える服部に、人選の間違いを疑いつつ…私は老人に導かれるままに一室の前へと辿り着いた。
「こちらにてお待ちください。」
そう告げられて招き入れられた部屋は、古びた絵画が壁一面に飾られた応接室だった。
テーブルには温かい湯気を上げる紅茶が既に用意されており、しかしそれを用意したのだろう人物の姿は全く見かけられなかった。
ローズティーだろうか。真っ赤な水色のそのカップに口をつける気にもならず待っていると。やがて応接室のドアが叩かれ…車椅子に乗せられた男が、先ほどの老人に押されて入室してきた。
「…当家の主、ヴラド公でございます。」
恭しくそう告げる老人の声に応え、車椅子の男は鷹揚に手を挙げて微笑んだ。
その笑顔と、深い深紅の瞳を目にし。わたしはソファから立ち上がり、こう呟くことになったのだ。
「…大旦那さま…。」
<次週に続く>