我が敬愛せしお嬢様、ご機嫌麗しゅうございますか?時任でございます。
つい先日まで、街行く人々は外套の襟を合わせ身を縮めて居られたというのに、
もう既に世は夏の薫りすら感じられるようでございます。
今年の季節は例年にも増して気紛れであられるようですね。まるでお嬢様のよう
…あ、いえ、失言でございました。ごほんごほん。
とはいえ、まだ陽が落ちれば肌寒くなる日もございます。また、急な雨の日もご
ざいましょう。
どうかお嬢様、当分はご面倒でも、肌寒くなられたときに羽織って頂く御召し物
と、傘の御用意は怠らぬようお願い申し上げます。
この季節に生き生きと咲き誇る庭園の華々のようなお嬢様の笑顔は、我ら使用人
の何にも代え難き慶びにございます。
その笑顔が曇る事なきよう、くれぐれも御身ご自愛下さいませ。
…それでは、毎回口喧しい事を申し上げましたが、これより後はいつものごとく
戯れ事にございます。
おやすみ前のひと時などに、ナイトキャップと共にお楽しみ頂ければ幸いにござ
います。
まだ星の輝きも残る、群青色の空。
間もなく夜も開けようという頃合。
お屋敷の屋根から見渡す世界は、まるで巨大な円形の箱庭のようにございます。
四方それぞれに広がる、森や草原の緑、河や湖の蒼。
白墨で引かれた線のような、どこまでも続く街道に沿って点在するのは、領民た
ちが静かに眠る村や街の影。
そのいくつからか、白煙がたちのぼっているのは、朝餉の早い住民が釜を炊いて
いるのでございましょうか。
緩やかに白みはじめる東の空。
夜のお屋敷を見回る御役目も、そろそろ引き上げ時のようでございます。
そうこう言っている間にも、
白く輝く東の空から、一条の光芒が射してまいりました。
あちち。
早々に引き上げようと、私はついと、お屋敷の屋根の端から脚を踏み出し、ひょ
うと玄関先へ舞い降りて、地下の自室への階段を降りていこうといたしました。
すると。
がさごそと。
地下入口付近に設けられた、煉瓦倉。
日光や湿気を嫌う家具などが納められた一室のほうから、微かに何者かが身じろ
ぐ気配を感じたのでございます。
「…ふむ。」
それは人とも思えないような僅かな気配。
倉に迷い込んだネズミの類かとも思ったのでございますが、比喩的な意味でもス
トレートな意味でも、お屋敷にネズミが紛れ込んでは大事でございます。
どちらにしても退治が必要…と、しゃらりと袖口から対侵入者用の装備を用意し
つつ、煉瓦倉の扉を僅かに引き開けて、するりと中に暗闇へ潜り込みました。
がさごそ。
他者が忍び入った気配を察してか、わずかに動揺の気配をみせたものの、そのの
ちはしん…と気配を消し、倉に潜む何者かはじっと私の気配を窺っているようで
す。
なれば…と。
更に音の元へと気配を殺して忍び寄り、ネズミをあぶり出すべく効果的な声を発
してみました。
即ち、「にゃあ」と。
すると奴は、がさごそと動揺の気配を見せ。
そして、思いがけないことに、声を返してきたのでございます。
そう。不思議そうな声で。
「にゃあ」と。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…貴方でしたか、みのるさん。」
煉瓦倉庫の中。暗闇と旧い家具の香りが満ちた空間で、私は一匹の猫を抱き上げ
ていました。
彼女の名はみのるさん。当家フットマンがひとり・出雲の愛猫でございます。
みのるさんが私の腕におさまるまでには、また紆余曲折がございまして。
機敏に物影を駆け回る彼女へと、すわ曲者かと私が放った麻痺針が、如何なる偶
然か全て彼女を掠め逸れて煉瓦の壁に突き立ち、それを不思議そうに肉球でつつ
いていたみのるさんを、私が捕らえるというドタバタな経緯があったのですが。
状況を把握しているのか否か、ごろごろと喉を鳴らして脱力している様子は実に
可憐でございます。
「…なぜ貴方がここに?出雲がまた血相を変えて探し回りますよ?」
そう問うても、にゃあ以外の返事が返ってくるはずもなく。
私は肩をすくめると、みのるさんを抱え直し、煉瓦扉の扉を開いて本館に帰ろう
といたしました…。
じゅっ!
あちちちち。
なんという事でしょう。
今日はまさに初夏を思わせるような、素晴らしい晴天だったようです。
冬かと思えばいきなり夏。最近の気候は何なのでございましょう。
いや、そんな長期的な問題はともかく。
困りました。
とてもではありませんが、こんな陽光の下を横切って本館に戻るなど、炎に身を
投じるようなものでございます。
まさか陽が落ちるまで 此処に潜んでいるわけにも参りませんし、どうしたものか
。
ーーにゃあ。
…ん?
途方に暮れる私へ差し延べられた救いの手には、肉球が付いておりました。
私の腕でモゾモゾしていたみのるさんが、スルリと腕から抜け出し床に降り立っ
たかと思うと、ついて来いとでも言うように尻尾を立ててスタスタと倉の奥へ歩
みはじめたのです。
「…?」
戸惑いながらも、みのるさんの自信に溢れる歩調につられるように付いていきま
すと、みのるさんは倉の隅に積まれていた古家具の間にごそごそと潜り込んで行
かれました。
そして、古家具の隙間から、誘うように囁きかけられる、にゃあと響く声。
「…にゃあと言われても。」
とはいえ、他に頼る充てもない現状、ひとまずみのるさんの潜ったあたりの古家
具を退かし、その先を見定める事に致しました。
すると。
みのるさんが潜り込んでいたのは、壁の一面に設えられた小さな扉の中。
もちろん、こんなところに猫扉を設けるほどまでは当家も頓狂ではございません
。
「…配管通路…そう言えば此処に通ってましたね。」
アナログに思われがちな当家でございますが、その実、立派な現代日本社会の一
建造物でございます。
当然、電気も通っていれば水道も引いているわけでございまして、このように空
調管理が重要な離れにはダクトも通っております。
さすれば当然、この離れと本館を繋ぐ配線・配管も存在するわけでして。それら
は全て地下や天蓋裏を巡らせた小通路を通しているのでございます。
本館や離れを縦横無尽に繋ぐこの配管通路、みのるさんにとっては丁度良い秘密
通路だったようですね。
ーーさて。
どこか得意げな顔で私を見上げるみのるさんを眺めながら、私は考えます。
この配管通路、猫の身であられるみのるさんなら丁度良うございますが、いささ
か人としても丈をとっている私には少々コンパクト過ぎます。
さりとて、このまま離れの倉に居たのでは、それこそ日が沈むまで何一つ仕事が
進みません。
幸い、人目もない倉の中。
「にゃあ。」
…いや、猫目はありますが。それは別に良うございます。
そう決意すると。
ーーもぞり。
薄闇に包まれた倉の中。
暗がりに僅かに垣間見えていた、人と猫のシルエット。
突っ立っていた人の影は、溶け堕ちるかのようにその形を崩し。
群れたる小虫が逃げ去るかの如くに、ざざざざっ…と配管通路へと吸い込まれて
行ったのでございました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…予想以上に便利ですね、ここは。」
生けるモップの如きみのるさんが良く行き来していたためか、配管通路内は覚悟
して居たような埃もなく、綺麗なものでございました。
埃まみれになった愛猫が自室に戻るたびに、かいがいしくブラシをかけていたの
だろう出雲の苦労が目に浮かぶようでございます。
時折連なる格子窓や配管の隙間からは、明けの陽射しが薄く差し込むお屋敷の様
子が垣間見えました。
お昼には数多くの使用人が立ち働くこの空間も、開けて間も無きこの時間は静謐
とも言えるほど静かです。
まだ仄暗く、静謐さに満ちたお屋敷に、天窓から薄い斜光が幾重にも差し込んで
いる様子は、名のある欧州の礼拝堂のような美しさでございました。
ごそごそ。
私を導くようにパタパタと動く尻尾を追いかけて、配管に沿って続く細い通路を
もぞもぞうねうねと進んで行きますと、いつしか順調にお屋敷本館に戻れたよう
でございます。
ありがたい。後は人目に付く心配の無い自室まで移動して脱出し、仕事の用意を
整えるだけでございます。
みのるさんには感謝の印として鰹節などお贈りさせて頂くべきでしょうか。
尻尾を拝みながらもぞもぞうねうねと進んでおりますと、途中、執務室を通過い
たしました。…厳密に申しますと、執務室の片隅の空調パイプの中を通過したの
でございますが。
「見てください、和月さん。今日もお嬢様方お戻り頂けるようですよ。」
漏れ聴こえた嬉しげな声につい、パイプの内側から執務室の様子を伺いますと、
まだ日も昇ったばかりの時間だというのに、すでにしっかりとフットマン用の白
ベストに着替えて、遠矢と和月が執務に勤しんでおりました。
遠矢は、まだ眠そうに目をこすりながら、ペーパーナイフを閃かせて届いたお手
紙を開封し、サロンの一日の予定を整理しているようでした。
いや、遠矢君。ペーパーナイフといえど、そんなうとうとしながら使っていては
危ないですよ?
忠告差し上げたいものの、この姿でにょろんと出て行くわけにも行かず。やきも
きしながら遠矢の手元を見守っておりました。
時折、開封した手紙を見て嬉しそうに微笑んでいるのは、お嬢様からのご帰宅の
知らせでございましょうか。
嬉しい手紙を見つけるたびに、和月の傍らにちょこちょこと駆け寄っては、はし
ゃぎまわっておりました。
なんという癒し力。まさにお屋敷の妖精。
和月がつられて小さく微笑む度に、正体の知れぬ力に充たされていくのが傍から
見ても伝わってまいります。
…ただ、はしゃぎ回るときはペーパーナイフは離したほうがいいかと…あわわ。
そんな遠矢を穏やかな視線で見守りながら、和月は朝一番に町から届いた荷物を
開いては、膨大な伝票の束を片手に確認を行っておりました。
南アジアから届いた紅茶の包みは、ブレンダーが取り寄せた異国の農園からの一
番摘みでございましょうか。ここまで良き薫りが漂ってきそうでございます。
木箱に納められた数本のワインは、より良きものを求めて世界を巡っている豪徳
寺が送ってきた物でございましょう。木箱の端に添えられた、近況を知らせるさ
さやかな便箋が、いかにも豪徳寺らしい誠実な気遣いを伝えております。
その他、ジュースや液体窒素、お手拭用のタオルや新しい什器、小麦粉や野菜や
蝋燭やインク瓶や…山のように積み上げられた街からの届け物を、和月は精密機
械のようにテキパキと確認しては、ページボーイたちを呼び寄せて、厨房や倉庫
など然るべきところへと運ばせておりました。
常に冷静かつ慎重な和月は、執務役としてとても頼りになる男でございます。
例外事態が起きたときにフリーズする悪癖はございますが、日常の執務に携わる
限り、それほど想定外なことも起こりますまい。
「………。」
「わぁ。和月さん、この手紙見ていいですか?豪徳寺執事からですよね?」
ワインの木箱についている便箋を見つけたのでしょう。遠矢が嬉しげに便箋を手
に取ると、和月へとそう言葉をかけておりました。
「………。」
「あれ、和月さん?和月さん?」
「………。」
…あれ?
なにやら、和月が一点を見つめたままフリーズしております。
まだ港で水揚げされて間もないのだろう、新鮮な海産物の詰められた木箱を開け
て、じっとその中を見つめているようです。
何事でしょう。
確か、港からの今日の納品予定はアサリと、海老と、ムール貝と…あと、ディナ
ーにご用意する予定のスズキ。
視点をぐにょりと動かして、和月の視点に合わせてみますと。
箱の中には新鮮なアサリ、ムール貝が並び、今にも踊り跳ねそうな海老が詰め込
まれ、まさに海の幸がたっぷりと詰め込まれておりました。
その中でも目を引く、大きな木箱の中央に鎮座している魚はディナー用のスズキ
……。
……にしては巨大なような。
軍用機すら連想させる鋭角なエラのフォルム。最後の間際まで漁師と戦い続けた
のだろう、剥き出された口元には鋭い牙が並び…
あー…。
これは鯱ですね。
しばしフリーズしていた和月は、おもむろに紙とペンを執務机から手に取り、そ
してさらさらと達筆に二つの文字を書き上げました。
『鱸』…スズキですね。
『鯱』…シャチですね。
そして、和月は傍らにあった発注書の束を取ると、当家から港に送られた本日分
の発注書を禽だし、掲げました。
『鯱。新鮮なるもの×3』
…漢字間違えましたか。
謎は全て解けた!とばかりに、ぐっ!と親指を立てて微笑む和月に、遠矢は無邪
気な笑顔を返し、言いました。
「返品してきなさい。」
…まぁ、味本や谷なら鯱でも調理しそうでございます。
そんな次第で、お嬢様。
本日ディナーのメインは『シャチのムニエル ~サフランと海洋のソース添え』
でございます。
嘘です。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
もぞもぞもぞうねうねうねと、急いで進んでいきますと、やがてサロンへと辿り
着きました。準備前のサロンは、まだテーブルにも紗布がかけられたままで、ラ
ンプにも灯が入れられておらず。
これから訪れる賑やかなひと時を想いながら微睡みの中にあるかのような、穏や
かな静寂に満ちておりました。
ダクトからサロンを見下ろしますと、執事机では柾木がお迎えの準備を整えている
様子でした。
まだ髪を整えていないのか、さらさらと髪を下ろしたまま、クロークを整理しカ
ップ棚にパタパタとはたきをかけております。
眼鏡もしていないところをみると、もしや柾木(弟)の方でしょうか。
厨房から頂いてきたのでしょう、もぐもぐとサンドイッチなど頬張りながら、て
きぱきとクローク整理を済ませ、カップを丁寧に一つ一つ磨き、鏡を磨きあげ…
。
普段は飄々としている柾木でございますが、いつも朝早くから起き出しては仕事
の準備を進め、藤堂や嘉島の助けとなるしっかり者でございます。
……もぐもぐとカンパーニュなど頬張りながら、通信機の具合を確かめ、ドアの
蝶番に油を差し…と忙しく働いていた柾木が、ふと執事机の方を振り向くと、こ
う声をかけておりました…「そろそろ朝早い方は到着する頃合いですね。そちら
の準備はどうです?」
すると、その声に応えて振り返った、今まで執事机で書類記入やファイル整理を
行っていたもうひとりの執事が振り返りました。
はて。既に藤堂か嘉島も来ていたのでしょうか?それとも椎名でしょうか…?
誰かと思いダクトから見下ろす視線を文字通りグニンと曲げて見てみると、執事
机に腰掛けて仕事を進めていたのは、黒髪をキッチリとオールバックに纏め、冷
静そうな視線を黒縁眼鏡に閉じ込めた執事…柾木でした。
おぉ。柾木(兄)。
ときおり弟が出現するとか、実は双子だとかいろいろ噂は耳に挟んでおりました
が、兄弟揃っているのを見たのは初めてでございます。
「確かに。そろそろ区切りをつけないといけなそうですね。」
もぐもぐとニューデリー風キッシュなど頬張りながら、書類へのサインを終え、
ファイルを纏め直した柾木(兄)は、椅子を戻しながら(弟)へと言葉を返しました
。
「それで、今日はどちらで行くのですか?」
仕上げとでも言いたげに、マリアージュフレールが満たされたカップを傾けなが
ら、(弟)がそんな言葉を口にすると、(兄)は皮肉気に笑い、ファイルをパラパ
ラとめくりながら答えました。
「今日お帰りくださるお嬢様は跳ね返りが多くていらっしゃる。貴方では敵わん
よ。」
「言いますねぇ。まぁ、レア者はレアらしく、今日も静観に廻らせて頂くよ。」
言葉を交わしながら、瓜二つの兄弟は、玄関前にございます鏡の前へと二人揃っ
て移動すると、何を思ったか、すっと手を差し出して掌を合わせました。
…何を?
そう疑問に思った瞬間、私は愕然といたしました。
鏡の前に立つ二人の姿。
そう、その姿は二人分だけ。
鏡の中には、柾木(兄)の姿も(弟)の姿も無かったのです。
…鏡に映ってない…?
それに驚く間もなく、掌を合わせた兄弟は鏡に近づくと、まるでそこは鏡ではな
く最初から通路だったかのように、(弟)が鏡の中へと踏み込み、そしてちょう
ど(兄)の鏡写し位置に収まったのです。
奇妙な光景でした。
鏡に手を当てる柾木の姿。
鏡の中にも当然、柾木がいるのですが鏡の中側は眼鏡が無く髪型も違う…。
「髪ぐらい整えなさい。」
自らの髪の乱れを直すように柾木が手を頭に添えると、鏡の中の柾木が苦笑しな
がら髪をオールバックにまとめ、ポケットから黒縁眼鏡を取り出して装着いたし
ました。
これで全く瓜二つの姿になると、鏡の中の(弟)せいぜい頑張れ。と笑い。(兄
)は表情をしかめて黙れと言わんばかりに手を振り。
そして完全に鏡写しを演じながら、二人は鏡を離れたのでした。
…えらいものを見てしまった気がいたします。
こんな秘密を知ってしまったと察せられたら、一緒に鏡の中に連れ去られかねま
せん。
…お嬢様、鏡の中の柾木にご注意を。
万一、鏡の向こうの柾木と目が合ってしまったら。あまつさえニヤリ等と笑って
いたら、決して鏡に近付き過ぎませんように……。
。
ぶにっ
そんな柔らかい感触と共に、私の進行はなにかフカフカした物に食い止められて
しまいました。
「…はて?」
何事かと見てみると。
目の前にはみのるさんの尻尾がぱたぱたと揺れ動いておりました。
ダクトの分岐点なのか、一段と狭く窄まって曲がっている一角。
その狭く窄まった地点に、きゅっと隙間無く詰まった状態で。
かりかりかりと、みのるさんの後ろ足が、やや宙を掻きがちにパタパタ動いてお
りました。
これは。
「…みのるさん。運動不足ですね。」
春先。食べ物の美味しい季節。
やれ果物だ、やれ春魚だと、嬉しそうにみのるさんのお皿に季節の幸を盛りつけ
る出雲さんの笑顔が思い出されます。
それを美味しそうに召し上がっているみのるさんを見かけるたびに、元気だなぁ
とか、主人のほうこそもっと食べろとか思っていたものでございますが。
普段は通れるのであろう、やや狭まったこの通路。
うっかりと春の幸で嵩を増してしまったみのるさんには、あまりにジャストサイ
ズ過ぎて。
…結果としてぴったりはまり込み、進むことも戻ることも出来なくなった様子で
ございます。
引くなり押すなりしてお助けしたいのは山々ですが。
うねうね。
もぞもぞ。
今の私は何処が手やら足やら……いやいや。狭すぎて手も足も出ないのでござい
ます。
ぴこぴこと。
落ち着き払った様子で尻尾を振っておいでのみのるさん。
大物なのか、単に狭いところがお好きなのか。この状況にも関わらず上機嫌でお
られます。
単に現状を把握してないだけかもしれません。
自力脱出は期待できない様子です。
かりかりかりかり。
ぴこぴこぴこぴこ。
懸命にみのるさんの後足が宙を掻き。
ご機嫌そうにふさふさとした尻尾が狭いダクトの中を跳ね回っております。
…。
ぴこぴこぴこ。
かりかりかり。
……。
ぴこぴこぴこ。
かりかりかり。
………ええと。
ぴこぴこぴこ。
かりかりかり。
…………みのるさん、後ほど救出に伺います。
…さて。
不幸な事故で案内人がリタイヤしてしまいました。
お屋敷の構造は隅々まで熟知しているつもりの私でしたが、さすがにお屋敷の裏
を這い回るダクトやパイプの構造までは盲点でございました。
そこいらの隙間からお屋敷内に入り込むことは可能ですが…万一に誰かに目撃さ
れたら一騒動となりましょう。
これは時任、一生の不覚。はたしてこの迷路を抜けて自室へと戻ることは出来る
のでございましょうか。
とはいっても、動かぬことには何の展望もございません。
当てもなく迷うままに、入り組んだ配管に道を間違えたり、細い細いパイプにに
ゅーーーっっと伸びて潜り込んだり、うっかり行き止まりでぎゅーーーっっと詰
まってしまったりしつつも、手探りに配管内をさまよっておりました。
すると、どこからともなくダクトに沿って、暖かな湯気と豊かな薫りが漂って参
りました。
これは…。
優雅な薫りに惹かれるままに、うぞうぞもぞもぞと配管内を彷徨っていきますと
。
やがて仄かに抑えられた見覚えある灯りに照らされた部屋…紅茶室へと辿り着き
ました。
厳密には、紅茶室の天蓋に備えられたダクト口に辿り着くことができました。
紅茶室では既に、本日のマイスターを仰せつかった者が茶葉の用意を整え、試作
に取り掛かっているようでございます。
本日のマイスターはどうやら、如月のようでございました。
井戸から汲み上げてきた鮮度の良い水を蓄え、巨大なケトルで煮立てては、紅茶
を試作し、今日の水の具合や温度湿度との相性を見ているのでしょう。
しきりに味を見ては真剣な表情で首を傾げております。
フットマンとして準備を進めていた水上や北見・金澤もいつしか集い、皆で小皿
に紅茶を注いでは、本日のお勧め紅茶をどうするべきか、議論しているようです
。
「今日は天気も良いからね。お嬢様も喉が渇いておられると思うし、アールグレ
イSSなんかお勧めするといいんじゃないかな?アイスで勧めてもいいと思うよ
。」
「ふむ、私としては…今日の井戸水はいささか硬いので…ここはやはりキャッス
ルトンをお勧めすべきかと思うのですが。」
「いえ、もちろんキャッスルトンも捨てがたいのですし、当家の古豪たるアール
グレイSSも夏には大変よろしいのですが…新ブレンドのランカもお勧めしたい
ところですね。」
如月はといえば、試作紅茶を口に運んでは、じっと瞑目し熟考している様子でご
ざいました。
楽しげに紅茶論議を重ねていた三人も、いつしかその真剣な表情に見入って口を
閉じ…本日のティーマイスターを仰せつかった如月の決定をじっと待っている様
子でございました。
真剣な様子に、ダクト裏の私もついつい耳を欹ててしまいます。
「では、本日のお勧め紅茶は……。」
ようやく自身の中で納得がいったのか。
満足げな笑みを浮かべて、如月が口を開きました。
ほう。といった表情で次の言葉を待つ、水上や金澤、北見たちに向かい、如月は
ささやくように、こう告げたのでございます。
「“フェブリエ”で。」
「フェブリエか!?継続か!?というか今までの時間はなんだったんですか!?
」
「い、いえ。ちゃんと吟味に吟味を重ねた結果としてのお勧めですよ!?」
「ふふ…茶葉ご用命数ランキングのトップ、まだまだ狙う気ですか如月さん。貴
方も野心家ですね。」
「何そのランキング!?っていうか今『貴方も』っていったよね。『も』って!
?」
「如月さん…もう時代は“フェアリーアロー”ですよ。」
「同情を込めて肩を叩かないでください!あくまで私は今日の気候や茶葉を省み
てお勧めをですね……!」
…えー。
お嬢様方。
今期の新作、遠矢考案の“フェアリーアロー”、出雲考案の“ミスティへヴン”
共に大変香りのよい銘茶でございます。ぜひお試しくださいませ。
ただし、先月の新作こと如月考案“フェブリエ”・藤原考案“アスカ・コート・
ノーブル”も変わらずご用意しておりますので、こちらもどうかご愛顧くださいま
せ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
なんだか楽しくなって参りました。
もぞもぞもぞもぞとパイプをくぐり、お屋敷の入り口のほうへ進んで見ますと、エントランスに辿り着いたようでございます。
エントランススペースでは、今朝もドアマンがお嬢様をお迎えすべくせっせと準備を進めております。
本日のエントランスの支度は…藤原と出雲が勤めているようでございますね。
藤原はしっかりと黒髪をサイドに流して整え、朝日に眼鏡を光らせながら、ドアの絨毯を綺麗にし、エントランスのソファや椅子を整え、綺麗に玄関を掃き清めておりました。
満面の笑顔で、ピカピカのドアを眺め、幾度もうんうんと頷いております。
お嬢様をお迎えするドアを万全の状態に保つことは、ドアマン頭である彼の誇りでもございます。
出雲はドアマン用のファイルをチェックし、エントランスを綺麗に掃き清めて。
のんびりとした風情で朝の風が吹き込むエントランスに佇んでおりました。
…みのるさんの大冒険と大ピンチにはまだ気付いていない様子でございますね。
気がついていれば、儚き貴人という風情の出雲は、たちどころに鬼神に変貌していることでございましょうから。
おや。
気がつけば、エントランスから伸びる階段を、ゆっくりと降りてくる足音が聞こえて参りました。
朝の早いお嬢様が、朝食を摂りにサロンへお越しくださったのでしょうか。
出雲と藤原は顔を見合わせると、準備万端だとでも言いたげに笑顔を交し合い。
そして出雲はサロンの扉を、ベルの音も軽やかに押し開けると、お嬢様に朝の挨拶を述べて……。
ん?
奇妙な物が目の端に映った。
エントランスの片隅で、お嬢様の入館をお待ちしていた藤原が、そんな表情で傍らの鏡を見つめました。
まさか柾…いや、違うようです。綺麗に磨かれた鏡には、きょとんとした顔で見返す藤原自身の姿しか映っておりません。
映っている物には異常はないのですが。
ガタ・・・ガタ・・・・ガタガタッ・・・。
何者かが触れて揺られているかのように、鏡そのものがガタガタと振動していたのです。
ドアマンファイルを片手に、お嬢様と挨拶を始めた出雲を横目に。
藤原はそーーっと鏡に触れると、鏡をちょいっと持ち上げて、鏡の裏側を覗いてみていました。
鏡の裏側には。
ぱたぱたぱたぱたぱた。
かりかりかりかりかり。
鏡の裏側に隠されていたパイプの走る配管路の扉。
その小さな扉を半ば押し開いて、毛玉の塊のような何かがジタバタと暴れておりました。
「・・・・・・・・・。」
じたばたかりかり。
みのるさん…?
主人を思う本能ゆえか、野生が目覚めたか。
あの絶望的な状況から、狭いパイプを潜り抜け、偶然にもみのるさんもここ、ドアエントランスに辿り着いていたようです。
よかった。みのるさんもこれで無事救出される。
そう胸をなでおろしはしましたが、今おいで頂いたお嬢様は少し驚かせてしまうかもしれませんね。
それに、こんなみのるさんの姿を出雲が見たら…。
………。
…ちょっとマズイかもしれません。
ぱたぱたぱたぱたぱた
かりかりかりかりかり。
出雲の気配を感じたのか、よりいっそうパタパタと暴れる毛玉。否、みのるさん。
お嬢様と談笑する出雲と、パタパタ暴れる毛玉を見比べる藤原。
そして藤原は。
おもむろにすっと、みのるさんへ手を差し伸べると。
―――ぎゅむっっっっっっ!!
洗濯機に毛布を詰め込むような強引さで、みのるさんを通路に押し戻し。
ぱたん。っと通路への扉を閉め。
何事も無かったかのように、鏡の傾きを直し、すっと姿勢を整えなおしました。
「おかえりなさいませ、お嬢様。」
独特の音律を持つ藤原のテノールでのご挨拶と笑顔。
それを見ながら私は、彼を次期ドアマン頭に選んだのは正解だったと、確信したのでございます。
りました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
綺麗に整えられたサロン。
庭師が届けた薔薇を綺麗に活け。ピンと張ったナプキンはそろえられ。
フットマンたちが整列して、お嬢様のお戻りをお待ちしております。
執事台に立つ藤堂は、にっこりと微笑み。
「それでは皆様、お嬢様をお迎えいたしますよ。」
そう、皆に一日の始まりの声をかけてくださいます。
お嬢様。
お屋敷の朝は、この様に毎日静かな努力を続ける者たちによって支えられてございます。
時任のように夜を護る者たちもおりますが。
朝を司る者達にも、ぜひ一度、ねぎらいの言葉をかけてやってくださいませ。
毎日、お嬢様をしっかりとお迎えするために。
私どもは喜んで、日々の業務に勤しんで参ります。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……みのるさん、動けます?」
ぱたぱたぱたぱた。
かりかりかりかり。
「……もう、お昼を過ぎましたかね。」
ぱたぱたぱたぱた。
かりかりかりかり。
「……後で椎名執事に怒られそうですね…。」
ぱたぱたぱたぱた。
かりかりかりかり。
「……もう諦めて寝ましょうか。」
ぱたっ。
おやすみなさい。
また、静かなる夜に。お嬢様をお護りするべく参上いたします。 時任