我が敬愛せしお嬢様へ。
ご機嫌うるわしゅうございますか?時任でございます。
気付けば桜も咲き誇り、薄紅の霧の如くに庭園を彩る季節となりました。
陽射しも大分暖かくなったと聞き及んでおりますが、三寒四温とも申します。油断して凍えたりなさいませんよう、上着はまだ温かいものをご用意くださいませ。
さて、そんな桜の季節でございますが。
私事にて恐縮ながら、時任めこの時期には恒例の用事がございまして、大旦那様にお休みを賜り些か遠出をしておりました。
今宵は、そんな休日のことを寝物語代わりに綴らせて頂きます。
どうか、お休み前でなのに目が冴えたときや。昼下がりにお暇ができたときなどにお読みいただけたら幸いでございます。
旧い友人がおります。
気ままな旅人のような友人と、お屋敷の地下に引きこもる私では、会う機会もほとんど無く。
それでも、チェスの強敵に違いに飢える私達は、この年に一度の邂逅を小さな楽しみにしているのでございます。
桜咲き誇る、とある湖の水辺で。
小さなあずまやに、テーブルクロス代わりに某風呂敷を広げて。
中央に置くのはチェスボード。
周囲に配置したのは、立花シェフに持たせていただいた甘く美味しい焼き菓子と、豪徳寺が持たせてくれた豊潤なるピノ・ノワールのボトル。
ありがたき先達お二人に感謝を捧げながら、友人は嬉しそうに焼き菓子へと手を伸ばし、私はピノの芳香と瑞々しい風味を楽しんでおりました。
友人は下戸で大の甘い物好き。私は酒豪にして少食。
友人は淡い暖色の衣を春風に踊らせてニコニコと笑い、私は肩に引っ掛けた漆黒のコートを湖からの涼風に翻しながら沈思黙考し。
…長き友のわりに、こよなくチェスゲームを愛する他には、共通点の少ない友人でございます。
ちょうどよい具合に磨耗した琥珀の駒を盤上に並べ、それぞれ美酒と甘味に舌鼓を打ちながらチェスを楽しんでおりますと、はらり。はらりと桜の花が少しずつ春風に乗り舞いはじめておりました。
「”城壁”をいきなりそこまで突き進めるのかい。しかも両方。相変わらずの奇手奇策だねえ。」
「奇策とは心外。敵陣深くに切り込み、そこに城塞を築くのは古今の戦の心得でございましょう。」
軽口をたたき合いながら駒を進め、知略と技量を比べ合う。私にとって至福のひと時でございます。
「そうも易々と”女王”を切り捨てますか。定石使いと思いきや、恐ろしい賭けをなさいますね。」
「いやいや。時任…だっけ?今の名は。時任くん、我々の目的は今”王”を倒すこと。”女王”惜しさに有線順位を見誤っては、勝利を逃すことになるよ?」
「それは然り。さりとて今の私は”女王”も護りたいのですよ。些細な意地にございますが。」
「それは良いことを聞いた。永い歴史を観てきた中で、美学や意地ゆえに滅んでしまった英傑のなんと多いことか。落し難き難敵を負かすために、あえて心を鬼とし、その弱点を突くとしよう。」
「もとから鬼でしょう、貴方は。」
手を打って勝機を喜ぶ、童子のような笑顔の友人に苦笑しながらも、美しい桜の舞いと美酒と菓子。そして友人との切願していた勝負に、私の口元にも知らず知らずのうちに笑みが浮かんで居たようでございます。
さて、幾度も勝負を重ね。互いの戦歴に勝利と敗北を二つずつ増やしたころでした。
「ふむ、やはりなかなか決着とは行かないものだねえ。」
「左様でございますね。飽きましたか?」
「飽きるわけが無いじゃないか。ただ、折角の年にただ一度の機会なのだから、もっと貪欲に楽しみを求めたっていいだろう?」
口を尖らせて我が侭を言い始めた友人を前に、私はまた苦笑し。
風に舞い遊ぶ桜の花を見上げながら、しばし考え、そして提案いたしました。
「ではこうしましょう。先ほどから舞い散る桜が盤上にも落ちておりますね?」
「花は散るモノだ、仕方ないじゃないか。」
「まだ拗ねておられるのですか。いいから聞いてください。これより、桜の花びらが舞い落ちた升目は、侵入不可能というルールに致しましょう。可動範囲が失われ常に状況が変わる盤面…というのも楽しそうだと思いませんか?」
「ほう。」
機嫌を崩してもふもふとガレットを囓っていた友人が、いきなり身を乗り出して満面の笑みを浮かべました。
「…ふむ、それは愉快。されどすぐに盤面が埋まってしまいそう故…そうだ、盤面を二つつなげてみようではないか。」
既に別のゲームとなりつつありましたが。
チェスボードを二つつなげて。そして舞い散る桜が落ちた升目には進めないというルールにしたところ。
これが非常に面白うございました。
何せ、時間をかけるほどに進める升目が少なくなり、難局となっていくのですから。
中には、四方全てをふさがれて行動不能となった”僧侶”や、桜に囲まれた難局をもっとも軽々と飛び越えていく”騎士”など、このルールならではの名場面も登場いたしました。
「…ところで、貴方は何故”王”をわざわざ桜が群れて落ちた場所に近づけているのです?」
「ふふふ、時任君、気付いていなかったのかい?このルールなら”王”を桜で囲んでしまえば、勝利が確定すると言うことを!」
「…いいですけど、”騎士”が来たら逃げられなくなりますよ?」
「に、二重に囲めば済むことだ。桜よ早く散れ、ここに早く舞い降りんか!」
「…はい、チェックメイト。もういっかいやります?」
「もちろんだ!今の自爆はルールの練習。次が本番としよう!」
その後も。駒を増やしたり減らしたり。”歩兵”だけが花びらを取り除けるというルールを新設したり。色々と楽しんでおりました。
それでも気付けば、あっという間に盤面が埋まってしまうほどに桜が舞い始め。
どうやらお暇の時が近づいてきたことを、私どもに知らせてくれました。
「ふむ、結局は5勝5敗、決着は付かずということか。」
「…さりげなく貴方の自爆をノーカウントにしないでください。」
「いいではないか、細かい奴だな。」
「それも仕事の内なんですよ。…楽しんでいただけました?」
「ああ、楽しかったよ。それにあのデリスフレーズの美味なること!パティシエに礼を言っておいてくれ!」
「お伝えしましょう。…やはり旅立たれるのですか。」
「例によって北へ北へとな。一つの地に留まるのは性に合わん。おまえも一緒に来れば良いのだ。」
「勘弁してください。陽光の下に留まるなど一年に一度で充分ですよ。」
「健康に悪いぞ。」
「…今更何を。ところで今年も庭園の花びら、頂いていってよろしいですかね?」
「おまえのお嬢様がたが腹を壊さんよう祈っているよ。」
別れの際まで軽口のたたき合い。
そんな私どもらしい距離を最後まで保って。
友人は最後の一陣の風と共に、旅立ちました。
「また春に会いましょう。」
桜花を見事に散らした、桜の大樹を前に。
私も静かに囁き、その場を後に致しました。
さぁ、さっさと戻って書類を片付けませんと。そろそろ和月君が耳から煙を噴いている頃かもしれません。
我が友人が残した桜の花は。
時折、デザートプレートの端を彩り、お嬢様のお目を楽しませることが出来るかもしれません。
どうか、一年に一度の邂逅を喜び。
そして、また春に会いましょうと、優しいお言葉をかけてやってくださいませ。