ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。
少し、幼き日の思い出話をば。
幼稚園でのお絵描き。食事をする自分を白画用紙いっぱいに表現しようと、手に持ったコップに入った水を描こうとした時のことでございます。クレヨンの箱に手を伸ばし、おや、と気が付きました。
それらしい”みずいろ”という名の色は、どこからどう見ても自分の知っているはずの水の色ではないのです。とはいえ、どこを見渡しても”とうめい”なんて色のクレヨンはなく、だからと言って何も塗られていない状態のコップは何も入っていないようにしか見えません。
ですので仕方なく”みずいろ”のクレヨンを手に取りコップを塗り潰してみれば、中々どうしてしっくりくる。
“5さいのぼく”が手に持った”みずいろ”のナニかは、決して青色五号の希釈液などではなく、紛れもない水なのです。
これは妥協なのか、それとも学習なのか。ともかくクレヨンに曰く”みずいろ”は、私を含める多くの人間にとって水の色であることは紛れもない事実であろうかと存じます。
それでは反対に、水の色は何色でしょう?
透明も然り、みずいろも然り。或いは少し濁っていても透明であれば水の色と言えるかもしれない。
触れ合ってきた水との関わり方や価値観、考え方、或いは人生すらも表層するやもしれません。
このそれぞれの知覚や感覚に類する概念を、哲学や脳科学でクオリアと言います。これを突き詰めれば、より世界の解像度が上がり、いずれ、自己とはなんなのかという、人間誰しもが直面するの本質的な疑問立ち向かえるかもしれません。少し、心が躍ります。
さて。こちらは、私が以前北海道の礼文島にて撮影したお写真でございます。
加工無しにしては、なかなか美しい海のお色でございましょう?
それでは改めて。
「この水は何色に見えますか?」
ぜひ、また。
お会いした時にお聞かせくださいませ。