ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。
隈川でございます。
スポーツ、芸術、娯楽、仕事。
どのような分野であれ興味のあることにのめり込むと上達したいという欲が生まれ、そこから経験や学びへと繋がってゆきます。
そしてそこから継続して努め、ある程度の基礎を修めたときに、ふとその分野について「価値観の解像度」があがっていることに気がつきます。
なんとなく感じていたことについて知識に基づいた説明ができるようになり、良し悪しの基準が鮮明に見えるようになるのです。これは大変素晴らしいことでございますね。
ただ、ここで気をつけなくてはならないのは、この上がった「価値観の解像度」を他人に押し付けてはいけないということ。解像度の高さ=その分野への愛情ではないということを忘れてはいけません。
例えば【小さな子どもが親の誕生日に初めて焼いたケーキ】と【一流のパティシエが長年の月日をかけて完成させた至高のケーキ】どちらに価値があるかと言われてもそれは立場によって変わるのです。
子どもの成長を感じる親の立場からすればこんなに美味しいケーキは他にないでしょうし、一流パティシエのケーキを楽しみに毎日を頑張ってきたお客さんからすればその日のケーキは世界一美味しいと思えるはずです。
そこに洋菓子を毎日食べ学び舌の肥えた他人がやってきて「その子どもの焼いたケーキは生焼けで良くないよ」とか「確かに一流の腕前だけど本場のパティスリーでもっと良いケーキを食べたことがあるよ」なんてことを言ったらどうでしょう。私はあまり良くないと思います。
どうしてこのようなことを言ってしまう人がいるのかというと、決して悪い人だからというわけではなく『自分はこんなにケーキを愛しているのに、なにもわかってない人がいる』ということが許せなくなってしまっているのです。
その人も確かにケーキを愛し【価値観の解像度】が高いのかもしれませんが、本当に大切なことは逆にぼやけて見えなくなっているように思います。
自分自身でもときどきこうなりかけてしまうことも自覚しております。気をつけなくてはいけませんね。
何かに夢中になったとき、傾倒した年月や突き詰めたクオリティは自分がその分野をもっと愛するための物差しとして使うことができますが、決して他人と他人、そして他人と自分を比べるためのものではないということを忘れてはいけないのです。
…ケーキの例えを出していたら食べたくなってきましたね!お嬢様、本日は何味になさいますか♪
隈川