日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

もう八月も終わり、暑い夏とはおさらばできる……というのは些か前時代的な考え方でございましょうか。
九月の暑さを残暑と表現するのはなかなか粋な日本語ではございますが、勘弁していただきたい……というのが正直な胸の内。

ですが天気予報を見るに私の思いは届かないようでございます。

ただ、それも当然でしょう。暦というものは我々人間が社会を円滑に成り立たせるうえで勝手に創造した境界でございますゆえ。そも、秋だから涼しくなるのではなく、涼しいからこそ秋になったのでございましょう。
元来、自然界には春夏秋冬二十四節気七十二候なぞ存在しないのですから。
どころか、朝・昼・晩といった時の流れや外と内、国境などといった空間の境界。植物と動物といった種の識別、家族・友人などの人間関係に至るまで。世界のすべては、我々人間が創造した境界のうえに成り立っているのです。
それでは、境界がないありのままの世界とはなんぞや、と。
それこそ渾然一体たる世界、仏教哲学でいうところの[空]でございます。

つまるところ、モノとモノの境界を定め、モノをモノたらしめるのは自分自身であり、それ以外の何物でもないのです。
自分という主体があるからこそ、世界が形を成す。即ち、観測者の存在で解が変わる……というのはまるで量子力学の不確定性原理のようでございますね。
リアルを突き詰める先にある物理学とヴァーチャルの中に解を見出す哲学。この二つが根底で繋がっているともすれば、何やら人間の智慧が世界の理に辿り着きそうで胸躍る毎日でございます。

さて。
胸が高鳴ると寝つきが悪くなるのは当然のこと。
安眠のお供に、ノンカフェインのミルクティーでも愉しみましょう。
紅茶にミルクを垂らします。鮮やかな水色がゆっくりと白濁していく様子を見ていると、世界を生み出す神になったような気分がしてなかなか楽しゅうございますね。束の間の、淤能碁呂島への小旅行。

ぼんやりとカップを眺めていると、大八島国が形を成す前に、おぼろげな疑問が頭に浮かびます。

ミルクティーとストレートティーの境界はどこなのだろうか、と。
ワイン樽にスプーン一杯の泥水を入れればそれは泥水である、とは伺いましたが。
カップに垂らした一滴のミルクにはどれほどの力があるものなのやら。

紅茶協会や先輩方にお尋ねすれば直ぐに分かるやもしれません。
ただ、境界というものは自らが定めるものである、と申し上げたばかりではございませんか。
よろしければ、今度また。お嬢様のご意見をお聞かせくださいませ。