お嬢様、お坊ちゃま。
奥様、旦那様。
ご機嫌麗しゅうございます。
才木でございます。
初夏の訪れを感じ始めたのと同時に、
今年は梅雨前線の近づくのも早いようで、
殊更雨の匂いが強くなってまいりました。
現代社会において
何かをするということは
非常に簡単でございますが、
目が覚めて地面に跳ね返る雨音を耳にしますと、
自ずと行動に制約を設けてしまうのは、
今も昔も変わらないのではないかと。
何もしない時間というのは、人に思想の自由を与えるもの。
その奔流へ身を任せるのも、
たまにはよいものです。
なので少しだけお付き合いくださいませ。
――
学生時分の教諭の教えで心に残っていることがあるのですが、それが「中立などない」ということです。
当時、私は何でもかんでもより中立であるべきだと考えておりましたので、
いたく衝撃を受けたのを覚えております。
冷静に考えれば
ある一定の主義主張がある時点で、
概念的である以上の「中立」というのは有り得ないのですから、
これは至極当然ではあります。
色眼鏡をかけて見る、などと申しますが、
物事を判断する際、
個人の道徳的規範に基づくのは
不思議ではないでしょう。
カント主義なのか、功利主義なのか。
形式的(規範的)なのか、実質的なのか
という論争はここから立ち現れてまいります。
反論はあれどこれを分かりやすく言いますと、
「結果に関わらず、私が正しいと思っていることが大事派」VS「結果がよくて、皆幸せなら何でもいいじゃん派」
に分かれます。
近年では、
マイケル・サンデルの
「これからの「正義」の話をしよう」
が流行りました。
サンデルの主張は
「共同体主義(コミュニタリアニズム)」
と呼ばれるものです。
ざっくりまとめると、
「結果の善し悪しって誰にとって?
切り捨てられる人がいていいの?
そもそも善し悪しを判断する個人って何?
生きてれば社会の色んな影響うけるでしょう?
だから絶対的に正しいことなんてないじゃん
なら皆で考え(発見し)なきゃ」
といった感じです。
本当にざっくりなので、
ご興味あれば調べてみてくださいませ。
「中立などない」という話に戻ります。
ここまでの文章にもありましたが、
物事をシンプルにする為の二極化思考が、
中立やフラットという考えの元です。
しかし色々な思想体系の発展から見ても、
常に多様化していくものであり、
かならずしも二極化は出来ません。
偏りというのは確実にあるものですから。
「中立などない」と認めることが、
多様性を認める上での出発点なのかも知れないな。
なんて当時思ったというお話でした。
「みんな違って、みんないい」
みたいなことを小難しく言っているだけですね。
結局私が思うのはいいとこ取りでございまして、
自分が正しいと思えれば、
それでいいんじゃないかというのも一つ。
でもそれだけではない、というのもまた一つ。
囚われる必要はないのではということです。
自分で自分を縛らないことが、
肝要なのではないかなどと。
まとまらないながらも考えております。
学問の出発点である哲学の目的は、
どうすれば幸福を得られるのかに
帰結するものです。
考えるという行為は、
必ず人生を豊かにしてくれます。
説教臭くなってしまい申し訳ないのですが、
気が向けばオススメです。
――
五月雨にほだされて
長くなってしまったのですが最後に。
六月の前半に、
私のフットマンケーキを
ティーサロンにてご用意いたします。
今回は「フルーツシュー」。
シンプルなシュー生地とカスタードと共に、
たっぷりのフルーツを楽しんでいただけます。
非常に初夏らしい仕上がりになりましたので、
是非お召し上がりくださいませ。
また様々楽しんでいただけるよう、
色んなことを考えておりますので!
こちらもご期待くださいませ。
お戻りを心よりお待ちしております。
才木