わが敬愛せしお嬢様。
ご機嫌麗しゅうございますか?時任でございます。
窓から見えるお庭も色づき、桜の季節を伝えております。
私が『お嬢様にふさわしき執事となる』ことを志し。
全てを捨てて身一つで、お屋敷の扉を叩いたのは、粉雪舞い飛ぶ冬の夜でございましたから。
早いもので。このお屋敷に仕えてより、一つの季節が変わろうとしております。
毎夜扉の前で嘆願する日々、お屋敷に踏み入ることを許されるまでに一月。
各務、大河内、小山内、朝比奈ら、敬うべき先輩たちに師事すること一月。
そして、大旦那様のお許しを頂き、燕尾を纏って給仕を許されてから、また一月。
これだけの教育と、先達たちの忠言と、
お嬢様がたからの寛容なる励ましを頂きながらも、
まだまだ思うようには、行き届いた給仕ができぬ我が身が不甲斐のうございます。
一日の最後の仕事として、深夜にテーブルを磨きながら、悔しさに身を震わせる夜もございますが。
いつかお嬢様に、心からのくつろぎと、安らぎをご用意できる執事となるべく。
日々の修練を怠らず、精進してまいります。
どうかお嬢様におかれましては。
季節の変わり目でも御座いますゆえ、くれぐれもお体にはお気をつけくださいませ。
お嬢様が日々、笑顔でお過ごし頂ける事を、時任は毎夜願っております。
…これだけでは堅苦しいばかりで詰まらないですね。
ではオマケと致しまして。
私が、当家の門を叩いたあの日のお話を致しましょうか…。
あの夜も、粉雪が夜空を舞う、静かな夜でございました。
長旅の果てに、当家に辿り着いた私でございましたが、当家に何の縁故もあるわけではなく。
ただ『お嬢様にふさわしき執事になる』その一心で、当家への奉公を志した、
いわば、どこの馬の骨とも知れぬ輩で御座いました。
それゆえに。
門前払いを受けることも、覚悟の上でございましたが。
それでも、信念をお認め頂き、当家にお仕えするお許しを頂こうと。
いかなる手段も辞さぬ覚悟で、当家の門へと手を伸ばしたのでございます。
『いかがなさいましたか?』
門へと近づいたとき、私にかけられた声は、そんなお言葉でした。
その口調は丁寧でございましたが、その威厳に満ちた声といったら。
地獄の番犬ケルベロスの吠え声のような、深い深いバリトンボイス。
驚き、視線を向けてみると。
門の傍らに、風雪をものともせず仁王立ちしている、黒いコート姿。
見上げるばかりの長身に、風雪に踊る黒い長髪。
優雅な銀眼鏡越しの冷静な瞳は、戦場の騎士のように強く厳しいものでした。
「貴方は…?」
冬の旅路に、身も心も凍えていた私は、震える声で問い返すことしかできず。
『我が名は“鋒崎”。』
「ホコサキ…さん?」
彼から見れば、私は雪の中から現れた、幽鬼のように見えたことでしょう。
それでも寸分の動揺も見せず、彼はただ、冷静な声で問うたのでした。
『左様。当家ドアマンを勤める者である。
そして再度お問いしたい。貴方は、いかなる御用にて、当家に来訪なさったのかを。』
「私に名など御座いません。この館を訪れる前に、名も身分も全て捨ててまいりました。」
『それは殊勝。
されど、約束も予約も無き方は、たとえ神とて通さぬのがドアマンの勤め。
当家の門はやすやすとは開かれぬ。凍え死なぬうちに街まで戻るが良かろう。』
「それは出来かねます、ドアマン。
“このお屋敷にお勤めし、最高級の執事の腕を手に入れる。”
その目的を果たすか、朽ちるか、私には最早その二択しかないのですから。」
『ほう。』
僅かにその厳しい頬が緩んだように見えたのは、私の見間違いだったのでしょうか。
『藪から棒に、なんとも苛烈な覚悟よ。
では名もなき者よ。この開かぬ門、どのように開くおつもりか?』
「その扉の傍らにあるベル。
そのドアベルを手に取り、チリチリ鳴らせば、執事の方々は本能的に扉を開いてしまうと、お聞きします。
その虚をついて屋敷に入り、大旦那さまに直訴申し上げるまで!」
『フム。』
厳しき顎を、思慮深く撫ぜ。
そして鋒崎と名乗られたドアマンは、今度こそハッキリと口元に笑みを浮かべたのでございます。
『名もなき者よ。今宵巡り会うたのが、この鋒崎であったことを、神に感謝せよ。
例えば黒江であったなら、お前は既に死…にはせんが、とうに街まで蹴り返されていよう。』
「貴方なら、まだ付け入る隙があるということですか?」
『否。勘違いも甚だしい。
この鋒崎、今宵は風雅な雪夜ゆえ、少々の遊び心が湧いておる。
名もなき者よ、戯れに遊んでやろう。かかってくるがいい!』
銀縁の眼鏡を仕舞いこみ、ばさりとコートを翻し。
鋒崎さんはそう宣言し、私を迎え撃つべく、構えを取られました。
されど、私も黙って口上を伺っていたわけではなく。
「……。」
『…って、ムウ。どこへ消えた。名も無き者よ。』
構えを取られた鋒崎さんの視界には、ただ吹きすさぶ粉雪と、白く彩られた前庭。
どこにも私の姿は無かったのでございます。
『どこだ?』
「私ですか?……いま、貴方の、後にいます。」
そして、私の囁きが放たれたのは、仁王立ちする鋒崎さんのその背後。
『面妖な…どこの怪談話だッッ!』
「私も伊達に長生きしておりません。
これぞ、前職で培った技術“気配が無いので、いつの間にか後ろにいてビックリ”の歩法!」
『単に影が薄いだけではないかッッ!!』
「それを言わんで下さいっ!…なんにせよ、鋒崎さん…ドアベル、頂きます!!」
鋒崎さんの、ほんの僅かな遊び心の隙を突き。
存在感の無さ…いやいや、鍛えた歩法を生かして背後に回りこんだ私は、
千載一遇の好機と、ドアベルへと手を伸ばしたのでございますが。
【甘いわ!】
その私の眼前に、まるで手品の様に立ち塞がれたのは、
確かに背後を取ったはずの、鋒崎さんの姿でした。
【兄者、素人相手とて油断はいかんな。少々遊びすぎだ。】
『済まんな弟よ。ここまで影が薄いとは思わなんだ。』
「ふ、二人?」
そう、いかなる魔術か体術か、鏡写しのごとく出現したもう一人の鋒崎さん。
ベルに伸ばした手を、豪腕に取られて吊り上げられたまま、
私は、前後に並び立つ二人の鋒崎さんの姿を、ただ愕然と見ていました。
「貴方は…双子だったですか…!?」
【む?まぁ、そのようなものだ。】
『惜しかったな、楽しめはしたが…そこまでだ。』
【行くぞ、兄者!】
『応とも、弟よ!』
その後、頭部を挟み込むように放たれた閃光のような豪腕の一撃。
その衝撃を最後に、私の記憶は途切れてございます。
懲りずに幾度も当家の門を叩くたびに、
当家の精鋭たるドアマンの方々には幾度も撃退されたものでしたが。
苔の一念か、大旦那様の気まぐれか。
ある夜、何十度目かの撃退を受け、意識を失った私は。
目を覚ましたとき、フットマン寮の一室に寝かされており、
その日から、あの厳しくも思い出深い、フットマン研修生としての日々が始まったのでございます。
ほんの余談のつもりが、ついつい話が長うなってしまいました。
つまらぬ愚談をお耳に入れてしまいましたが、お嬢様の寝物語代わりになれば、嬉しゅうございます。
それでは、お嬢様。おやすみなさいませ。
お嬢様の元へ、今宵も良い夢が訪れますように。
時任