9月という響きは秋らしさを内包するものの、いまだしばらくは夏の気配が去りそうにありません。
収穫をよろこぶのも、もうひと月ふた月先のことかと思うと、いっそ9月は夏であると断言してくれた方が心がやすまりそうです。
伊織でございます。
ドライフルーツも甘いものもめったに口にしませんが、ここ数年で「干し芋」の存在を見直しました。
完全にお年寄りの食べ物だろうと高をくくっていたのがお恥ずかしい。
食べようと思えば一年中手に入る干し芋でございますが、「9月」というのと同じで、「芋」という響きは秋を連想させ、この時期になると散りのがした花のように、心の枝先にひっかかってなりません。
だからと言って、手元にあれば気を違えたようにモグモグ食べ続けるかというと、そういうわけでもなく、少しばかりいただければ満足いたします。
きっと体内の糖分許容量がすぐいっぱいになってしまうのでしょう。
「干し~」にロマンを感じて止まないわたくしですが、発端をさかのぼってみますと意外なところに行き当たりました。
学校での古典の授業でございます。
お嬢様もご存じかと思います「伊勢物語」の授業でございます。
授業で触れるのは長い伊勢物語の冒頭部分だけでしたが、その中に「かれいい」という物が登場いたします。
干した米のことでございます。
蒸した米を乾燥させ、水か湯で戻して食べるという保存食でございます。
きっと湯を沸かすのも昔は大変だっただろうにと想像すると、旅の道中では水で戻して口にしたのではないかという考えを経て、「おいしくなさそうだなぁ」という感想にいたります。
この「おいしくなさそうな保存食」こそが、わたくしの「干し~」への憧れの始まりでございました。
そうした物しか食べられなかった当時に思いをはせること、それ自体が楽しいのです。
実際に食べるものは、おいしいに超したことはありません。
お嬢様のお口に入るものでしたらなおさらです。
とはいえ、「かれいい」は自分でも作れそうなので一度試してみたいと思います。
結果はまたいずれ、ご報告いたします。