思い込み

調べ物が簡単になり、多様な意見を目にすることも容易になった今、正しい答えを見いだし選択する能力が問われております。

他人の意見がそのまま自分のものにすり替わってしまう、なんていう懸念も随分耳にいたしますが、正直そんな事ここ100年で始まったことでもなかろうに、と私的には感じております。

いかがお過ごしでしょうか。

伊織でございます。

 

 

当たり前のように思っていがことが、実は真実では無かったというご経験はございますか?

わたくしも先日そういった気づきがひとつございました。

マリー・アントワネットが言ったとされる有名な言葉、

 

「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」

 

に関するものです。

これは日本語訳の問題かと思いますが、「お菓子を」というのは正確ではなく、本来は「ブリオッシュを」なのだそうですね。

これはさすがにわたくしも存じておりましたが、さらにもうひとつ、この言葉に関する発見がございました。

それが、

 

“実際は誰の言葉か分からない”

 

です。

 

 

マリー・アントワネットが言ったという記録は無く、どうやら別の誰かのセリフだったようなのです。

今やこの説も広く知れ渡っていることのようですが、わたくしが知りましたのはごく最近のことでした。

目と耳は常に空けていないといけないなと改めて自身に言い聞かせるとともに、この説もいつか覆される日がやってくるのではないかと、うたぐり深くなりそうです。

キンモクセイ

ようやく本格的に秋を感じられるようになってきました。

ふと思い出したように高い気温の日がやってきては思いがけず汗をにじませる、なんてのもこの頃の特徴ではないでしょうか。

いかがお過ごしでしょうか。

伊織でございます。

 

 

春の沈丁花、夏は梔子、睡蓮ときて、秋待ち遠しいのは金木犀でございます。

いずれも香りが特徴の花々ですが、どこからともなく香って、季節の移り変わりを気づかせてくれるというのが魅力のひとつです。

目で捉えるよりも早く香りをみつけ、次いで花はどこかと探して回る、そんな戯れが日常に変化をもたらしてくれるのが、たまらなく好きだったりいたします。

毎年のように金木犀とはかくれんぼを繰り返し、日誌にも度々登場していることと思います。

 

昨今は金木犀が香水を始め、いたるところでもてはやされているようですね。

わたくしと金木犀とのかくれんぼが、これまで以上に難しくなってしまいそうです。

虫の声

朝晩は秋らしくなってきたものの、まだまだ日中は夏の名残を感じる日も続いております。お嬢様はいかがおすごしでしょうか?

伊織でございます。

 

 

秋の夜、当たり前のように聞こえてくる涼やかな虫の声ですが、この虫の声をまさに「声」と捉えているのは日本人のもつ希有な特徴なのだという話を耳にいたしました。

海外の多くの地域の方が虫の声を単なる音、騒音と同じように感じているのだそうです。

どうやら日本人は虫の声を言語脳で処理しているため、まさに言葉として捕らえているというのです。

 

 

「虫の声」という表現自体が、すでに我々がただの音として認識しているのではない、ということを表しているのかもしれませんね。

 

 

秋の夜長、語りかけてくる虫の声に耳を澄ませてみてはいかがでしょうか?

おひさま万歳!

暑い最中、いかがお過ごしですか?
伊織でございます。

まもなく蓮見とともにエクストラティー「Praise the Sun」をご用意いたします。
照りつける太陽と歩み続けるため、ミネラルたっぷりのアイスティーをお作りする予定です。

カモミールが主体となるハーブティー「おひさま」にはちみつ、青リンゴ、そして汗をかく季節にうれしいスポーツドリンクを合わせるという試みでございます。

お口に合うことを願ってお待ちしております。

ことば

ひらがな、カタカナ、漢字、お嬢様はどれがお好きですか?

伊織でございます。

 

ものによってどの文字で書き表すのが正しいか、一定のルールがあります。

動物や植物は基本は漢字で書きますが、常用漢字でなければひらがななのだそうです。

学術的にはカタカナで書き記されます。

 

3種類も文字があるだけにルール化が必要だったのでしょうか。みんなが好き勝手に書き記してゴチャゴチャしたら確かに分かりづらいかもしれませんし、難しい漢字で書いたはいいけど誰も読めないのでは、文字の「伝える」という機能を果たすことができない、と考えたのかもしれません。

誰か賢い人に教えて欲しいものです。

 

それはともかく、同じ言葉でも表記が違えば感じさせる印象が変わるというのは、すごい機能だと思います。日頃何気なく使いつつも、意識してみると非常に表現の自由度が高いことがわかり、シンプルに「すごいなー」と感心するものです。

第二カ国語として日本語を学ばれる方々が苦心されるのも分かります。どれが現在の場面において正しいのか、もしくは最も効果的なのかを判断しなければならないのは、第一カ国語としているわたくしですら危ういのですから。

 

他の言語には他の言語ならではの特異な表現方法があり、他と比べて「すごいなー」と思える特徴があることでしょう。

勉強不足が否めませんが、少なくとも今自分が理解しうる日本語の表現にだけは目を向け続けていたいと思います。

想像力

想像力があるとか無いとか、問えば問うほど紡ぎ出される解答の想像力のなさに愕然とさせられます。

いかがお過ごしでしょうか。

伊織でございます。

 

人間いろんなことを考えます。

お嬢様もわたくしも八幡も、日々いろんなことを考えています。

考えている内容は「本当」のことばかりとは限らないのではないでしょうか。思考の中で嘘をついているのではなく、現実ではない(起きていない)ことを考えていることの方が多いのではないかな、と思うのです。

未来のことであったり、もしかしたらというifの世界のことであったり、内容は様々のことでしょう。

すでに経験したことでないのだとしたら、すべてが想像の産物と言えないでしょうか。明日のことも、もしもあの時リンゴを買っていたら、なんていう現実に起きていないことを考えているのですから、みんな想像力が生み出した幻影なのだとわたくしは感じます。

 

難しい定義だとか仕組みだとか、そういうことは賢い人たちに任せておくとして、シンプルにわたくしは人間ずっと絶えず想像し続けているのでは、と思うのです。

だとしたら、想像力があるとか無いとかという問答は意味をなしません。みんな「ある」で○がもらえることでしょう。

 

なかなか他人が思いつかないようなことを考えつくから想像力がある、という風に表現されることもありますが、むしろ日常的には「他人が思うことを等しく考えつく」能力としての想像力に長けている方がよっぽど上手に生きていける気がします。

 

こうしてアレコレ書いている内に着地どころを失い、最終的にきちんと答えを導き出すことができないでいると、やっぱり何かしら想像力の一部が機能してないなぁ、と自身にがっかりするのです。

 

閉じた感覚をもう一度開くのは大変です。

開いているなら、けっして閉じないように五感を働かせ続けて下さい。

想像力は内からはやってきません。外から入ってくるものがなければ、想像の種すら生まれることはありません。

昔過ごした場所がどうなっているか、時折ふと気になる時がございます。

伊織でございます。

 

都会は都会で、田舎は田舎で、年月が経っても意外と大きく印象が変わらない場所がほとんどなのかもしれません。

わたくしが生まれ育った町も、お屋敷を取り巻く大都会も、変わってはいるけど変わってはいない、そんな感じがいたします。

変わったところが目につくと同時に、変わっていないところを意識的に探してつなぎ合わせて、変わっていないあの頃のままにしたいと願っているのでしょうか。

 

変わってほしくないなと思うのは、ただただ自身の記憶との差違を拒むだけのわがままなのでしょうか。

 

わたくしが留学していた小さな町は、当時からすでに時代の中に取り残された、というか、ある一定の時点から近代化を拒み続けているという印象の田舎町でした。

当時いまだにヒッピーがサンダルを手にして裸足で町中を歩いていたり、そんなもんだから商店の入り口には「Shoes Required」のサインが出ていたりしたものです。

世界中どこにでもあるような大フランチャイズすら1店舗もなく、ファーストフード店ですら個人経営のお店しかありませんでした。

 

あの町は今も変わらず何十年も前から姿を変えずにあるのでしょうか。

足を運んで自らの目で確かめる機会がつかめぬまま、まだ何年も疑問を抱き続けるのだろうと思います。

現代的なテクノロジーを駆使すれば、今の町並みがどんな様子かなんて確かめるのはいとも簡単なことだとは知りつつも、そんな技術で町を盗み見るのはあの古くさくて頑固な町の意思に反するように感じてしまうのです。

 

あの町に住んでいた人がみんな変わらずそこにいるだなどとは信じていません。ただ、せめてうわっつらの風景だけでも変わらないでいてほしいと思うのは、やっぱりわたくしのわがままなのだろうと思います。