第三環

「おかえりなさいませ。」

深く下げたお辞儀を観察する眼差し。
いつもより鋭いそれは、彼らがこの屋敷の中でも特に、
選ばれ、磨かれた逸材だという確固たる証拠であった。

私は、ほかの仲間たちと一緒に来月に控えている
昇進試験へ向けて特訓の真っ只中であった。

上官の指導の下、特に期待されている候補生らが
次のステップへの準備をちゃくちゃくと進めている中、
激しい怒声が部屋に響き渡り、皆の視線が集まった。。

「違う!そこで頭を下げるときはもっと深く!」
「皿をサーブするときはもっと丁寧に!」
「何度言ったらわかるんだ!シルバーの位置が違う!」

視線が向けられているのは私と上司の「佐藤」。
しかし、いつものことなので各自はすぐに興味を無くし
訓練に勤しんでいた。

私だけがこんな扱いを受けているのはなぜだか理解している。
「佐藤」は一等に私を気にかけてくれている。
期待もして、希望もしているのが肌で感じられる。

そんな気持ちが切に伝わる身としては、それに答えたいと
いう気持ちが、私の向上心にさらなる栄養を与えてくれる。

彼が厳しいのは訓練の時だけで、プライベートでは
まるで兄のように慕っていた。

決して良くはない環境で幼少期を送っていた私を、
ここまで立派に育て上げてくれたのも彼のおかげである。

数え切れない感謝と、恩を返したい気持ちをいつも
胸に秘めながら、いつかは彼のようになりたいという気持ちも
自然と固まっていったのであった。

そんな気持ちを抱えたままのある日。
彼から突然の呼び出しがあった。
私は特に何の疑いもせずに彼の元へと駆けつけたのだが、
そこで明かされた内容は、私の心を大きく揺さぶるものであった。

突然の辞職。
皆に話す前に私にだけ明かしてくれた、揺ぎの無い決心であった。

彼には年の離れた妹がいて、どうやら汚染区域に無断で入り、
体を病んでしまったらしい。

彼女の両親は高齢でありながらも共働きのため、
兄としてはここを続けるよりも、妹のそばで働き口を探すことが
家族にとっても良いことだと、彼は真剣なまなざしで語ってくれた。

揺るがない眼差しを目の当たりにし、家族を大切にしていた彼を
誇りに思いながらも、『兄を取られた』という大人気ない気持ちを
抱えたまま、私はうなずき、理解に努めた。

すべてを話し終わったら、彼はどんな気持ちでここを去るのだろう。
まるで彼の言葉ひとつひとつが生命を持ち、私の心に入り込んでくる
ようであった。

それはさながら、熟れた果実が役目を終え、大地へと種撒くさまを
私に連想させた。

話が終わるころ、時計はすでに日付を越えていた。
最後に冗談交じりで「一緒に来るか?」という言葉がうれしかった。

彼との最後の別れ際、私は不覚にも涙を流した。
彼はそれを大げさだと笑った。

しかし、そのころから私の心は安定しなくなり、給仕に支障が出始め、
私の評価は悪くなる一方であった。

それだけ彼が心の支えになっていたのだといなくなって
初めて気づいた。

そして今に続く・・・。

『第一環』

「ちょっと寒いな・・・。」

この大きなお屋敷の門の前、少しかじかむ手を我慢しながら、
私は警備の一人として、秋空の元、薄手のコート一枚で立っていた。

目の前に広がる木々達は、早くも紅潮したように葉先を染め始め、
この国の芸術的なまでに美しい季節の移り変わりに
心を通わせていたのも束の間、さもしい自分を心の水面に移されて、
比較できないほどちっぽけな身分を憂いた。

そっと隣に目を配らせてみると、そこには顔色ひとつ変えずに
背筋を伸ばしたまま立っているもう一人のコート姿の男がいた。

「あいつ絶対懐炉を背中に貼ってるだろ・・・。」
「一枚ぐらいくれてもいいのに・・・。」
「でも、言い出せない。あいつに借りを作ると厄介だし・・・。」

などと、さっきの憂いは、徐々に相方への謂れの無い誹謗中傷へと
変化してゆき、今や私の心は枝から枯れ落ちる寸前であった。

「何をぼぅっとこっちを見ている。」
と隣の男は強い口調でこちらに声をかけてきた。
「もうすぐ来客のお出ましだ。我等は門番であり、屋敷の顔である。
そんな間抜け面では屋敷の品格を疑われるぞ。」

はいはい。と気迫の無い相槌を打っていたとき、道の向こう側から
車が近づいてくる音が聞こえてきた。
さっと襟を立て直した私の横を、高そうな車が減速していく。
そして、私に向かって、
「政府の高村です。」
と律儀に自分の写真つきIDカードを提示してきた。

私は先ほど確認した時間と、面会の時間が寸分違わなかったこと、
今朝見た来客リストと顔、ID、フルネーム共に正確であったことを
1秒以内に認識した上で、極上の作り笑いと共に言葉を返した。

「かしこまりました。ただいま門をお開けいたします。」

とまぁ、こんな具合に一日の活動の半分は門の警護、
残りの時間は雑用もろもろと、下っ端の仕事を毎日宛がわれている。
不満があるわけじゃないが、ここに入る前はもっと希望に満ちていた
気がする。

お嬢様の身の回りの世話。
執事との細かい連携の取れた仕事。
そして指導者としての自分・・・。

決して華々しくは無くとも、誰かのために誠意を尽くす職に憧れ、
ここの門をくぐった日が懐かしい。
今では、当たらずとも遠からず、確かな手ごたえなどほとんどないが、
なんとなく誰かの役にはたっている。
実にぼやけた日常だった。

『手ごたえが欲しい』

以前私の目標だったあの人は今はもういない。
彼に助けられたあの日、そこに見出した私の目標は、
砂上の楼閣だったのかもしれないと、
私の目の前であんなに優雅で気品溢れる給仕を行っていた
それは泡沫だったのかもしれないと、
答え無き禅門答を繰り返し、薄れる理由から夢を搾り取り、
ここまで何とかやってきた。

でもここまで。
所詮しがない私の経歴では大した仕事を任されることも無く、
指導者など夢のまた夢であった。
がむしゃらに走ってきた日々は、秋の枯れゆく木々のように、
徐々に様子を変えながら、やがては散りゆくのだろう。

私の眼前に広がる景色は、何処までも穏やかで、
目の前に立ちはだかる屋敷の門は、いつまでも閉じたままだった。

給仕の一環

西暦2xxx年。

人々の、他を省みず、自分ばかり快適に暮らせれば良いという思考が災いし、
地球の温度は上昇。空気も昔と比べさらに汚くなり、地域によっては
居住不可能な区域も出来てしまう程に世界は住みにくくなってしまった。

そんな現状に危機感を感じた各国の首脳は話し合い、
そして様々な意見が飛び交った。

その中のひとつ。
『執事制度』
これは執事のように誠心誠意、主、または人々に対して心を尽くす精神を、
一人一人が持つようにとの意味を込めて導入された制度である。

“給仕の一環” の続きを読む

一息ついたその跡で

「ふぅ・・・。」
とりあえず私は一息ついた。

見渡す限りの大草原。
だだっ広い大地にポツンと一人。
「地平線という言葉はこういう眺めのためにあるんだなぁ」と感嘆していたのも束の間、
すぐに見慣れた私は、不安と虚無のさざ波が交互に寄せる中を、地図と写真を頼りに目的地へと歩を進めていた。

“一息ついたその跡で” の続きを読む