ご機嫌麗しゅうございます。荒木田でございます。
いかにもな夏が到来し、日を追うごとにますます蒸し暑くなっておりますが、お嬢様は毎日どのようにお過ごしでしょうか。お身体を大切になさりながら、心地よい場所でお過ごしいただけることを願っております。
目には青葉 山ほととぎす 初鰹
さて。
毎年、夏になるとこの句が頭によぎります。
江戸時代前期に山口素堂によって詠まれたこの句は、目に映る青々と茂る山の葉と、耳に入る時鳥のさえずり、そして舌で味わう初鰹、という三者三様の風物詩で夏(とは言っても旧暦の夏でございますが)の素晴らしさを語る、そんな句でございますが、いかがでしょう。
なんとも素敵な句だとは思いませんか?
夏の素晴らしさをただ列挙しているだけ。
言ってしまえばそれだけの文字列でございます。しかし、口ずさんでみると、中々どうして腑に落ちる。それは何故でございましょう。
この文字列をただの箇条書きではなく、俳句という芸術に昇華させているのは上の句にある、余計なはずの「は」の一文字なのだと、私は感じてございます。
「は」を抜き、上の句を「目に青葉」とすれば五・七・五調となり、教科書通りの美しいリズムが完成します。口に出してみれば滑らかに言葉が躍り出でることでしょう。しかし、山口素堂は敢えてそうしませんでした。「目には青葉」と六文字で慣れ親しんだ七五調のリズムを破壊し、混沌の世界に誘うのです。この常識の破壊こそが、新たな美しさと調和をもたらしたのです。
大切なのは疑ってみることでございます。地球が太陽の周りを回っていることを。或いは蛹が蝶となり羽ばたくことを。そして……ワイングラスがずっとその形を保っていることを。
きっと、私の足元に散らばっているクリスタルガラスの破片は、手を滑らせてしまったのではございません。
常識外の頂上的な力で突如として私の足元に顕現し、その代償として、私の手からワイングラスを別次元に奪っていったのです。これこそがきっと、新たな美しさと調和なのでございます。
だからこそ、私が拭いていたグラスは今手元になく、足元にはその残骸に酷似した透明な破片が散らばっているのです。
私が落としてお屋敷の床に叩きつけられ、哀れにも粉々になったのではございません。決して。絶対に。
……ごめんなさい。