日誌

ご機嫌麗しゅうございます。荒木田でございます。

気がつけばもう10月も半ば、2023年も終わりが見えてございます。
少し前まで、猛暑日ばかりの茹だるような暑さが続いていたかと思えば、ここ最近は20度を下回り肌寒く感じる日が多くなって参りました。季節の移ろいはもう少々丁寧であって欲しいと願うばかりでございます。『秋』はもっと自己主張できないものでしょうか。物置の奥からコートを引っ張り出せば、昨冬のあの凛々しい姿はどこへやら。哀愁漂う皺まみれの姿に、申し訳なく独り頭をやや、やや垂れました。

さて。それでは秋を通り越した冬の到来が残念なのかと問われれば、殊の外。全くそんなことはございません。
厳かで雅趣に富む冬の夜、何はともなく筆が進み、誰に見せるわけもない詩作が励みます。手前味噌ですが中々どうして、粋でございましょう?
そうだ、俳句など。全くもって、よろしいではございませんか。らしく、冬の季語と共に。冬でイメージする私の好きなものを挙げ連ねていきましょう。

炬燵でぬくぬくと、自堕落に。温かいお汁粉でも啜るのは至福のひと時でございます。或いは、折角ですから着物でも着て街に繰り出しましょうか。お気に入りの羽織の上に、足首まで覆い隠さんやという長さの洋ロングコートを掛けるのが荒木田流。喫茶店でホットココアを飲んで暖を取る、というのも悪くはございませんが、ここは一つ、芯から温まりましょう。蕎麦屋の暖簾を潜り、天ぷら蕎麦を一つ、熱燗と共に喫すれば、寒さなど何処へやら。

嗚呼、冬とは、こうでなくては。

……ここまで妄想して、おや、と。ペンを持つ手は止まります。

炬燵にお汁粉、コートに熱燗。私の愛する冬の季語は、得てして、熱いもの/温かいものに大分されます。冬と言えば寒いもののはず、そもそもこの話も、寒さが発端でございます。
この理屈に準ずるならば、冬と言えば温かい/熱いものであり、かき氷や扇風機、川に海、おや夏は寒い/冷たいものである、とこれは些か直感に反するところではございませんか。

然もありなん、それこそが人の営み、”文化”でございます。

簡単に行列式で言い換えれば、”自然”という正方行列[A]から、”快適”というゼロベース=即ち単位行列[E]を成立させるのに必要な逆行列[X]こそが”文化
“である、というのが私の自説でございます。[X]は時に、”発明”であり、”商品”であり、或いは”サービス”と相成ります。

豊かな自然が織りなす四季折々の風景は大変美しゅうございますが、[X]にあたる、それに応ずる人間社会の営みも等しく合理性のもと、美しさを備えております。桜の下で咲き誇るブルーシート、冷やし中華の提供宣言、街に響く芋の調理方法、エトセトラ、エトセトラ。

自然と文化に相対しつつ、小さな秋を探しにお散歩といきましょう。ぜひ、ポケットは空っぽで。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

もう八月も終わり、暑い夏とはおさらばできる……というのは些か前時代的な考え方でございましょうか。
九月の暑さを残暑と表現するのはなかなか粋な日本語ではございますが、勘弁していただきたい……というのが正直な胸の内。

ですが天気予報を見るに私の思いは届かないようでございます。

ただ、それも当然でしょう。暦というものは我々人間が社会を円滑に成り立たせるうえで勝手に創造した境界でございますゆえ。そも、秋だから涼しくなるのではなく、涼しいからこそ秋になったのでございましょう。
元来、自然界には春夏秋冬二十四節気七十二候なぞ存在しないのですから。
どころか、朝・昼・晩といった時の流れや外と内、国境などといった空間の境界。植物と動物といった種の識別、家族・友人などの人間関係に至るまで。世界のすべては、我々人間が創造した境界のうえに成り立っているのです。
それでは、境界がないありのままの世界とはなんぞや、と。
それこそ渾然一体たる世界、仏教哲学でいうところの[空]でございます。

つまるところ、モノとモノの境界を定め、モノをモノたらしめるのは自分自身であり、それ以外の何物でもないのです。
自分という主体があるからこそ、世界が形を成す。即ち、観測者の存在で解が変わる……というのはまるで量子力学の不確定性原理のようでございますね。
リアルを突き詰める先にある物理学とヴァーチャルの中に解を見出す哲学。この二つが根底で繋がっているともすれば、何やら人間の智慧が世界の理に辿り着きそうで胸躍る毎日でございます。

さて。
胸が高鳴ると寝つきが悪くなるのは当然のこと。
安眠のお供に、ノンカフェインのミルクティーでも愉しみましょう。
紅茶にミルクを垂らします。鮮やかな水色がゆっくりと白濁していく様子を見ていると、世界を生み出す神になったような気分がしてなかなか楽しゅうございますね。束の間の、淤能碁呂島への小旅行。

ぼんやりとカップを眺めていると、大八島国が形を成す前に、おぼろげな疑問が頭に浮かびます。

ミルクティーとストレートティーの境界はどこなのだろうか、と。
ワイン樽にスプーン一杯の泥水を入れればそれは泥水である、とは伺いましたが。
カップに垂らした一滴のミルクにはどれほどの力があるものなのやら。

紅茶協会や先輩方にお尋ねすれば直ぐに分かるやもしれません。
ただ、境界というものは自らが定めるものである、と申し上げたばかりではございませんか。
よろしければ、今度また。お嬢様のご意見をお聞かせくださいませ。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます。荒木田でございます。

いかにもな夏が到来し、日を追うごとにますます蒸し暑くなっておりますが、お嬢様は毎日どのようにお過ごしでしょうか。お身体を大切になさりながら、心地よい場所でお過ごしいただけることを願っております。

目には青葉 山ほととぎす 初鰹

さて。
毎年、夏になるとこの句が頭によぎります。

江戸時代前期に山口素堂によって詠まれたこの句は、目に映る青々と茂る山の葉と、耳に入る時鳥のさえずり、そして舌で味わう初鰹、という三者三様の風物詩で夏(とは言っても旧暦の夏でございますが)の素晴らしさを語る、そんな句でございますが、いかがでしょう。
なんとも素敵な句だとは思いませんか?

夏の素晴らしさをただ列挙しているだけ。
言ってしまえばそれだけの文字列でございます。しかし、口ずさんでみると、中々どうして腑に落ちる。それは何故でございましょう。
この文字列をただの箇条書きではなく、俳句という芸術に昇華させているのは上の句にある、余計なはずの「は」の一文字なのだと、私は感じてございます。

「は」を抜き、上の句を「目に青葉」とすれば五・七・五調となり、教科書通りの美しいリズムが完成します。口に出してみれば滑らかに言葉が躍り出でることでしょう。しかし、山口素堂は敢えてそうしませんでした。「目には青葉」と六文字で慣れ親しんだ七五調のリズムを破壊し、混沌の世界に誘うのです。この常識の破壊こそが、新たな美しさと調和をもたらしたのです。

大切なのは疑ってみることでございます。地球が太陽の周りを回っていることを。或いは蛹が蝶となり羽ばたくことを。そして……ワイングラスがずっとその形を保っていることを。

きっと、私の足元に散らばっているクリスタルガラスの破片は、手を滑らせてしまったのではございません。
常識外の頂上的な力で突如として私の足元に顕現し、その代償として、私の手からワイングラスを別次元に奪っていったのです。これこそがきっと、新たな美しさと調和なのでございます。
だからこそ、私が拭いていたグラスは今手元になく、足元にはその残骸に酷似した透明な破片が散らばっているのです。
私が落としてお屋敷の床に叩きつけられ、哀れにも粉々になったのではございません。決して。絶対に。

……ごめんなさい。

荒木田と申します

ご機嫌麗しゅうございます。

大旦那様の命により、先日よりティーサロンにてお嬢様、お坊ちゃまにお給仕してございます、荒木田でございます。

若輩ゆえ至らぬ点が多々あるかと存じますが、諸先輩方のような秀麗皎潔なフットマンになれるよう一意専心に努力して参ります。

何卒よろしくお願いいたします。