日誌

春風駘蕩という言葉が相応しいような、過ごしやすい陽気が日に日に増えてまいりました。

ただでさえ素肌で風を切るバイク乗りにとって、冬というのは地獄の季節でございますから。私の春の到来に対する喜びといったら、冬眠中の森の動物たちやふきのとうに負けずとも劣らじ、でございます。

……あ、因みに夏も地獄でございますよ。オートバイにはエアコンなんてございませんからね、直射日光に灼かれ、夏暑く冬寒い、そんな素敵な乗り物がオートバイでございます。

それではそんな最高の乗り物であるオートバイに欠点はないのか、と言われれば哀しいかな、これらとは別の、一つ大きな欠点を抱えてしまっているのです。

お察しのこととは存じますがそれは当然、危険性、でございます。

ただでさえタイヤが二つしかないオートバイは安定性に欠けますし、自動車と違って搭乗者を護る硬い外骨格もございません。生身で数十キロ、所によっては百キロを超えるほどの速度で走るわけですから、事故にでも遭ってしまえばひとたまりもありません。

一度、人里離れた山奥でひとり、大スリップをしでかしたことがございます。幸い軽傷だったものの、電波も通りませんし人影なんて全くと言っていいほど見られないような場所でございましたから、もし大怪我などしていたらとゾッとしてしまいます。参考までに、このような具合でございましたというお写真でございます。

 

 

 

 

では何故そんな危険を承知でオートバイに乗るのか。荒木田は馬鹿なのか。

それは、他のどの乗り物よりも自由だから、でございます……あ、馬鹿は馬鹿でございますが。

私の旅好きは今に始まったことではございません。初めての一人旅はまだ酒の味も知らぬ時分でございましたから、当然免許なんてあるはずもなく。当時の旅といえば、専ら列車や飛行機といった公共交通機関を使っての旅でございました。鈍行列車に乗ってのろのろと全国各地を巡り、ありとあらゆる神社を参詣したものです。もちろん、それはそれで非常に楽しく、素晴らしい体験・経験でございました。

以前にも申したやもしれませんが、一人旅というのは、自由なのです。肩にのしかかる全てを忘れて何者になっても良い。社会に生きる自らのしがらみから解き放たれる快感は他に変えようがございません。

バイクを走らせている時に感じる開放感は、どこにでも行くことができる、何でもできるのだという全能感にさえ近いような自由なのです。当然、徒歩や自転車よりも行動可能範囲が広く、電車やバスでは届かない場所に行くことができ、自動車よりも取り回しが良い、という現実感を感じるメリットはひとまず置いておいて。

素肌で感じる風と、隔絶されていないからこそ感じるその土地の空気のにおい。海を、山を、街のビル群を、視界に入るそれらの世界があっという間に後ろに飛び去っていく快感。地図にない道なき道を切り開く高揚感。誰に言われるでも命令されるでも引き止められるでもなく、ただ自分が、今したいと思うことをできる喜び。

どんな形であれ、私は一人旅というものを愛しております。しかしやはり、一度このオートバイが与えてくれる自由というものを味わってしまっては、これなしの旅は考えられないな、というのも正直なところで。

とはいえ、危ないことには変わりありませんから。お嬢様、坊っちゃまにはあまりバイクに跨ってほしくない、というのは一つ本音でございますね。どうぞ、もっとご安全な旅をお楽しみくださいませ。

……あ、人力車でもご用意いたしましょうか。私と、あとは久保と冴島あたりに声をかけてご用意いたします。あとは、片倉あたりにも。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

私には一つ、絶対に忘れられない景色、というものがありまして。少し、その話をしたく。

これは私がお屋敷にお仕えするよりも、ちょっぴり前の話でございます。

9月の中頃でしたでしょうか。私は北海道の稚内におりました。

東京は猛暑日という中でも、北海道の最北、それもバイクで風を切って走るなどすれば、涼しいを通り越して最早寒い。限られた装備で出来うる限り最大の防寒対策を施しアクセルを捻ります。

まァバイク旅というのは、春夏秋冬古今東西、いつだって艱難辛苦に見舞われるものでございます。

とはいえ気分は上々。なにせ、憧れの宗谷岬に行けたばかりなのですから。

 

 

 

 

 

日本本土最北に位置する宗谷岬は、全国のライダー・旅好きたちの憧れの地でございます。当然私も、例に漏れず。

果ての果てまで来たぞという達成感、のみならず、貝殻が敷き詰められた「白い道」を始め、蝦夷鹿が群れ、大草原が広がる宗谷のその日本離れした大自然に圧倒され、喜びを噛み締めておりました。

 

 

 

 

 

さて、そんな喜びも束の間に向かったのは、稚内よりフェリーで西に2時間ほどの小島、礼文島でした。

 

 

 

 

 

特に理由があったわけではありません。当然、予定があったわけでも、島に何があるかも知りません。目の前にフェリーがあった、だから乗った。一人旅というのは、そういうものでございます。

 

 

 

 

ゆらり揺られて小一時間。島に着いたらバイクに跨り、船内で調べた観光情報をもとに簡単に島内を散策いたしました。温泉に浸かり、ほっけのちゃんちゃん焼きに舌鼓を打つ(バイクさえなければ、ビールも合わせてもっと楽しめたのですが!)。ウム、出だしは好調。

とはいっても、もう日も傾きかけでしたから、観光も程々にキャンプ場に向かい、テントを貼って夜に備えます。明日になったら、じっくり腰を据えて島内を遊び回ろう。そう決心し、地図を開いた時、一つの思いが頭をよぎりました。

……そうだ、星を見に行こう。

実は私、星空が大好きでして。

よく小さな頃は『銀河鉄道の夜』や『星の王子さま』を読んでその情景に胸を躍らせたものです。限らず、ありとあらゆる創作物で描かれる“満天の星空”に惚れ惚れとしておりました。

しかし、都会の夜は、星空を楽しむには眩しすぎます。ジョバンニとカムパネルラの旅する星々の海は、いつだって私の頭上の寂しい宇宙にはございませんでした。

ですから私は、人里離れた山奥や田舎の明かりが少ない場所に行っては首を上に向け、或いは地面に寝そべり、星を眺めるのです。

ずっと憧れ続けている“満天の星空”を夢見て。

さて、ここは礼文島、ただでさえ周りに光が少ない離島です。きっと、最高の星空が見られるのではないか。

閃きのままに、テントから這い出てバイクを走らせます。目指すは礼文島最北スコトン岬。島の中でも抜きん出て暗く、三方が海に囲まれ遮蔽物がない絶好のロケーション。

走行中のヘルメットから窺い知れる星空にはできる限り目を向けないようにして、岬に到着いたしました。キャンピングチェアを広げ辺りを見回すと、人っこ一人いない岬には当然街灯も民家も無く、先ほどまで煌々と光っていた月も、今や海の下。

場所は完璧、時は来たれり。いざ、顔を挙げてみれば。

広がっていたのは、どうにも筆舌に尽くし難いほどの、文字の通り、絶景でございました。

漆黒とは、過ぎれば青を帯びるのでしょうか。

一雫の藍色を落としたような宇宙の黒は引き込まれそうなほど深く、夜の海の水平線との境界を失くしたそれは恐怖すら覚えるほど、蠱惑的です。

そして、そんな上等で魅力的な宇宙の墨を下品なまでに塗りたくる光の粒の数々が、なんと美しいことか。

真っ黒なテーブルクロスに牛乳を零してしまった、そんな文学的表現をすんなり飲み込めてしまうような、淡く白い光の帯。ミルキーウェイとは、うまいことを言ったものです。

夏の夜空の代名詞たる大三角は明るく光る星々の中でも一際強く輝き、北斗七星とカシオペア座から導き出した北極星は、ひっそりと、しかし力強く指針たる堂々とした煌めきを誇り。そんな真っ白な光たちの中で異様なオレンジの光を放つ蠍座のアンタレスは今にも西の海に沈みそうで、北東の空を見やれば、すばる・プレアデス星団は7個ほどの星粒が寄り添っておりました。

そして、そのもう少し東の空に漂う淡い靄、アンドロメダ銀河とアンドロメダ座。二つのアンドロメダは、夏の終わりを彩り、秋の到来を感じさせる星々。

それはまさしく、あの日あの時、夢見た光景でございました。忘れられない、忘れようにも忘れられない、美しい思い出でございます。

そして一つ、腑に落ちました。

宮沢賢治も、サン=テクジュペリも。こんな美しい星空をきっと見ていたのであれば、成程あれだけ美しい物語を紡げるはずである、と。

 

長々と昔話にお付き合いいただきありがとうございました。

11月25日、時任執事とオリジナルカクテル『アルフェラッツ』をご用意いたします。

透き通った秋の夜空で輝く二等星、アンドロメダ座α星-Alpheratz-の輝きをイメージしたショートカクテルでございます。

アンドロメダ座は、もともと日本を含め東洋では奎宿(とかきぼし)と言われ親しまれてきたそうですが、一説によると、奎宿は文章を司る星なんだとか。

「ほんとうの天上へさえ行ける切符」や「かけがえのない一輪のばら」に想いを馳せるお供としてぴったりな一杯をお作りしてお待ちしてございます。私が見た礼文島の星空を少しでも共有できれば。どうぞお楽しみくださいませ。

余談ですが、私もお屋敷にお仕えして一年半ほどになります。

ついに普段のお給仕以外でティーサロンに立つことになるとは、中々に感無量でございます。最近は新しい使用人たちも増えましたから、そろそろ私も先輩らしいところをお見せしなければなりませんね!

……え?
同期の椿木は一年以上前に初めてのオリジナルカクテルを作ってるし、最近でもエクストラティーをご用意したり、紅茶やワインの資格も取得したりと向上に余念がないのに、荒木田は一年半も何をやっていたんだ、ですって?

…………失敬!ドヒューン

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

「布を織っている間は決して部屋を覗いてはいけません」
そう娘から伝えられていたにも関わらず、お爺さんは好奇心からか、或いは心配からか、つい部屋を覗いてしまいました。
すると、部屋にいたのは自らの羽で機を織る一匹の鶴でした。
正体を見られてしまった鶴は寂しそうに遠くの空に飛んで行きました……。

これは有名なお伽話、鶴の恩返しの一節でございます、きっと一度は耳にしたことがあるでしょう。
日本人にとって非常に慣れ親しんだ物語でございますが、実はこういった物語は、一つの類型として『見るなの禁』と呼称され、世界中に数多存在するのです。
例えば日本神話の伊奘冉然り、西欧ギリシャ神話に至るまで。

物語の登場人物が、なんらかのタブーを与えられ、そのタブーを犯してしまった結果、罰が与えられる……。
まさしく、教訓と呼ぶに相応しい物語でございますね。タブーを創出する側は超常的な存在でございます。神に逆らうなかれ、というやつでしょうか。

折角ですので、もう一つキーワードをば。
人間がタブーを与えられた時。
『見るな、喋るな、開けるな、振り向くな』
得てして、それを犯したくなる心理的欲求が現出するのです。
『見たい、喋りたい、開けたい、振り向きたい』
これを「カリギュラ効果」と言います。

「食べちゃいけないのに、つい食べちゃう」
「聞いちゃいけないのに、耳を澄ましちゃう」
もしそのようなことで自責の念に駆られるような事がございましたら、何卒ご安心ください、人間にとってそれは恥ずべきことではございませんので。
タブーを犯したくなる人間の根源的欲求。
もしかすると、人が抱える原罪の一つやも。なんだかダークで魅力的でございますね。

少し記憶を辿ってみれば。
『混ぜるなキケン』を混ぜたがる幼少時代。
学生机にこっそり「もりそば」と刻み込んだ中学二年生の夏。
20歳になりお酒を飲めるようになった暁には、寝る間を惜しんで政治と宗教と野球の勉強をいたしました。
カリギュラ効果とともに歩んできた私のデモニック半生。うむ、奥ゆかしい。
お屋敷にはタブーが沢山ございます。
……まだまだ楽しめそうでございますね。

さて、11月にはお屋敷にて、私も考案いたしましたケーキ、きのみミルフィーユをご用意してございます。
滑らかなキャラメルクリームとサクサクのパイ生地のコントラスト。上に添えたくるみが可愛らしいアクセントでございます。
とっても美味しゅうございますので、ぜひ食べないでください!!

……あ、嫌ですね。いくらカリギュラ効果と言えど、食べないでほしい、は違います。嘘でございます。嘘。
ぜひ、絶対に、美味しくお召し上がりください。
お召し上がりいただかないと、駄目です。

あ、そう言うとカリギュラ効果的にはお召し上がりいただけなくなるんでしょうか?
やっぱり食べないでください。
あ、いや、やっぱり。

詰みました。

「この先通行止め」と言われると、ついギリギリまで行きたくなってしまいます。
長野県の人里離れた山奥より、愛を込めて。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

いまさらの紹介ですが、私荒木田、旅好きを自称することが多くございます。日本国内に限りですが、47都道府県、全政令指定都市は当然のこと、本土全ての東西南北、全国一宮、人の寄り付かぬ秘境駅などなど。
まあここまでいろんなところに足を運べば、流石に旅が好きだと自負してもばちは当たらないでしょう。

さて。
そんな旅好きには、絶対に付き纏う問題がございます。
それは、旅と旅行の違いでございます。

そう、私は旅好きであって、旅行好きではないのです。
これは別に、旅と言った方が旅行と言うよりもカッコいいから、というわけではございません。あ、いや、ほんのちょっぴりくらいはありますが。
旅と旅行は似て非なるものなのです。
とは言っても、正しい言葉の定義があるわけではないのですが。調べても、それぞれいろんな方の主張があるだけですし。

ですので恐らく、自分なりの定義を定めても許されるのではないのかと。
荒木田なりのその二つの違いを述べてみます。

旅行も旅も、実際に行われることは似通っていますね。
普段とは異なる土地に行って、何かを経験すること。それは旅行にも旅にも当てはまります。
旅行とは、観光であったりを楽しむために普段とは異なる土地に行くこと。すなわち、移動は手段であると言えます。
対して、旅は、どこかへ行くことそのものが目的であり、そこで得られた経験は副次的なものに過ぎないのです。極論、移動さえすれば、旅の目的は果たされます。

だからこそ私は、旅好きを自称するのです。
別にその先に、素敵な景色や愉快な施設、美味しい食べ物がある必要はございません。
ありふれた街並みでも、殺風景な景色でも。ただそれがそこにあるという事実を目の当たりにするのが個人的な旅の醍醐味なのです。

意外とよろしいものでございますよ。 日本地図を見下ろして、ありふれた日常を想起する、というのも。

……とは言いつつも、お写真をお見せするのであれば、素敵な景色を披露したいものでございますね。
場所は……秘密でございます。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

先日、何とはなしにお屋敷のそばを歩き散らしていた時のことでございます。
電信柱に雑に括られていた張り紙がふと目に留まりました。
「木のぬくもり溢れる新築戸建4LDK〇〇万円〜」
立地が分からないからお得感が伝わらないわ、ですとか、令和でもこんな広告が生き残っているなんて寧ろ雅ですわ、なんて感想が頭をよぎる中、最後まで私の心に残った言葉は「木のぬくもり」でございました。

木のぬくもり。よく使われる言葉でございますね。ただ、ハテ、と疑問も浮かびます。
本当にぬくもり、あたたかみがあるのだろうか、と。捻くれ者の荒木田でございますから、木のぬくもりがあふれる4LDKよりも、全室床暖房のぬくもりや最新式のAIエアコンのぬくもりの方がより良いのではないか、と思ってしまったり。

確かに、科学的な事実はございます。木材は熱伝導率がコンクリートや鉄に比べて低いですから、それらと違って触れた時にひんやりとしません。ただそれはあくまで相対的に冷たさを感じないだけであって、ぬくもり、というのとはまた違う気がします。

なんて屁理屈を並べながら色々な様相の新築戸建に思いを馳せているとしかし、言葉の真意に辿り着きました。
打ちっぱなしのコンクリートで囲まれた部屋。確かにモードでスタイリッシュではございますが、何物も受け付けないような尖った洗練さがございます。格好いいのですが、息が詰まってしまいそうです。
対して、木目調に囲まれたナチュラルなお部屋はといえば。洗練されているわけではないし、スタイリッシュでもございません。しかし、居るだけでほっとするような心地よさがございます。
まるで、ここにいてもいいよ、と伝えてくれているようではございませんか。それはなぜなのでしょう。木目の色味によるものなのか、木材の熱伝導率によるものなのか。

木のぬくもりの本質とはきっと、受容なのではないかと思うのです。何物も拒まないようなおおらかな強さ。数百年生きてきた木材だからこそ出せる強者の余裕、とでも言いましょうか。出来立てほやほやのコンクリートには出せない深みでございます。合理的な機械には決して醸し出すことのできないおおらかさ。
そんな受容こそが、ぬくもりを感じさせるのだと。

それでは私も受け入れられたい、と喜び勇んで、張り紙の下の方に記されていた電話番号にかけてみました。
ぜひ私に内見をさせてはくれませんか。そして大黒柱を抱きしめてそっと一人言ちるのです。
「嗚呼、あたたかい」と。
フフ、背後で青ざめる不動産屋の顔が目に浮かぶようでございます。お次はフローリングに頬擦りでもいたしましょうか。あ、流石にそれはよろしゅうございませんね。木々はきっと受け入れてくれるでしょうが、世間体というものは受け入れてはくれませんので。
……なんて思っていたら、耳元から声が。

「この番号は現在使われておりません」

なるほど。
機械音声というのは、冷たいですね。

何の気なしに、お写真を。
長野県は青鬼集落の青鬼神社境内より。
木々のぬくもりに溢れた静謐が心地良うございます。

日誌

フレフレ日本!
がんばれ日本!

……あ、大変失礼いたしました。
ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。
2024年は四の倍数、すなわちオリンピックの開催年であることは当然ご承知おきの通りかと存じますが、お嬢様・お坊ちゃまにおかれましてはそんなスポーツの祭典はご覧になっておりますか?

馴染みのあるスポーツからそうでないものまで。私も学生の時分にはスポーツに打ち込んでおりましたから、トップアスリートたちがそれぞれの国を代表して日々の鍛錬の成果をぶつけ合う、というこのイベントは見ているだけで血湧き肉躍る思いでございます。
どのスポーツも大変面白いもので、毎日のようにスポーツ観戦に釘付けになった結果私の身に降りかかった災難が。 そう、壊滅的な寝不足でございます。

パリと日本の時差は7時間もございますから、競技によっては、リアルタイム観戦を志せば自然と入眠時間も遅くなってしまうこともしばしば。
日々お屋敷の執務のためにあくせくしている使用人にとって、早起きも大事なお務め。つまり、惰眠を貪ることは許されないのです。結果として、皺寄せは全て睡眠時間に。
最近は専ら、重たい瞼を擦りながら書庫に蔵する書物をお掃除してございます。

そういえば睡眠に際して最近、面白い学説を耳にしました。
それは、生物にとって睡眠こそが自然な状態である、というもの。要するに、ずっと寝てばかりの堕落した生活は、社会からは問題視されこそすれ、生物学的には正しいのだ、とする論文でございます。
私は専門家ではございませんから、どれくらい信憑性のある論文なのかは存じ上げませんが、
ややもすると、胡蝶の夢こそがこの世の理として真実なのやも、と思わせるような魅力あふれる説でございます。

つい書庫でお昼寝してしまっても安心でございますね。私は自然体なのですと声を上げれば許されるやもしれませんので。
ただ、せっかく寝るのでしたら夢でも楽しみたいところ。ハットトリック、キャンキャン、ドラグレスク、ブザービート……。夢の中では体を操るなど思うがままでございます。
それでは、良い夢を。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

ぽつぽつ。ぱらぱら。ざあざあ。しとしと。

時に。雨はお好きでございますか?
おそらく、NOという言葉が聞こえてくるのではないでしょうか。
折角のお召し物が濡れてしまいましたらばその日の気分も台無しですし、太陽が見えないとなんとなく鬱屈としてしまう、というのは誰しもが抱く感情でしょう。そもそも、傘という荷物が増えるのもあまりスマートではございませんしね。
お屋敷の使用人たちも、朝から雨が降っている日は心なしか顔色が悪いように見えます。偏頭痛で頭を抱える使用人も若干名。あ、これは違う話か。
ともかく、一般的に雨というのは望まれない天気であるかと存じます。
「嫌な天気」という不名誉な称号も得ていることですしね。

さて。
そんな嫌われ者の雨でございますが、私はそんな彼らと相対した時、密かに楽しんでいることがございます。
……それは”雨音”でございます。
いや正確には”雨音を表現する”と言った方が適切でしょうか。

窓や屋根、傘や地面を叩く雨音に耳を澄まし、その雨音を自身の素からまろび出たオノマトペで表現するのです。
それの何が楽しいのか。
一言で言うと、自分を再認識する、自分探しの一種でございます。
耳というデバイスで集音し、鼓膜を震わせた雨音と言う波を、脳というCPUで理解し、判断し、アウトプットする。
まさにその時、既存の価値観に囚われない、自身の、何者にも侵されない絶対的で根源的な判断を持って、表現する。

本当に、
小雨はぽつぽつと聴こえるでしょうか。
驟雨はざあざあと響いているでしょうか。
霧雨はしとしとと鳴っているでしょうか。

言語という文化を可能な限り絞り出し、最後に残った出涸らしにこそ自己は眠っているのではないでしょうか。
そしてその自己を知ること。他を知り己を知る、というのとは、ややニュアンスが異なりますが、そうやって暗がりに潜む自分の深層意識を手探りで感じるまたとない機会でございます。

日本語には多くオノマトペがございますが、とはいえこれは雨音に限った話ではなく。
あまり犬は「わんわん」とは鳴きませんし、咀嚼音が「もぐもぐ」と聞こえることもございません。心臓が「ドキッ」と鳴ればそれは恋ではなく不整脈ですし、「シーン」と静かな環境は、果たしてそれでいいのかと首をかしげたくなります。
日常のいたるところに楽しみは潜んでおりますね。

というわけで、今年の夏はこっそりと書庫を抜け出して、日本中のありとあらゆる川の上流より桃を流し、実際に「どんぶらこ」と聴こえるかをセルフ自由研究として掲げてございます。(久保と小瀧を連れて行きます。無理矢理にでも)
お嬢様、お坊っちゃま。川に洗濯に行く際は何卒耳をお澄ましくださいませ。

ああそれから。 7月より、当家のギフトショップにて、くるみを使用いたしましたリーフパイをご用意してございます。
さくさくのリーフパイにカリッとくるみがアクセント。 ……オノマトペが適切かどうかは、ぜひお試しいただければ幸いでございます。

 

 

 

こちら、北海道は大雪山国立公園より。ぼろぼろの旧士幌線はしんしんとしたノスタルジックの中にひっそり潜むオカルティズムが心地良うございます。
もふもふの蝦夷栗鼠もリーフパイを食べに来てくれると嬉しゅうございますね。