日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

「布を織っている間は決して部屋を覗いてはいけません」
そう娘から伝えられていたにも関わらず、お爺さんは好奇心からか、或いは心配からか、つい部屋を覗いてしまいました。
すると、部屋にいたのは自らの羽で機を織る一匹の鶴でした。
正体を見られてしまった鶴は寂しそうに遠くの空に飛んで行きました……。

これは有名なお伽話、鶴の恩返しの一節でございます、きっと一度は耳にしたことがあるでしょう。
日本人にとって非常に慣れ親しんだ物語でございますが、実はこういった物語は、一つの類型として『見るなの禁』と呼称され、世界中に数多存在するのです。
例えば日本神話の伊奘冉然り、西欧ギリシャ神話に至るまで。

物語の登場人物が、なんらかのタブーを与えられ、そのタブーを犯してしまった結果、罰が与えられる……。
まさしく、教訓と呼ぶに相応しい物語でございますね。タブーを創出する側は超常的な存在でございます。神に逆らうなかれ、というやつでしょうか。

折角ですので、もう一つキーワードをば。
人間がタブーを与えられた時。
『見るな、喋るな、開けるな、振り向くな』
得てして、それを犯したくなる心理的欲求が現出するのです。
『見たい、喋りたい、開けたい、振り向きたい』
これを「カリギュラ効果」と言います。

「食べちゃいけないのに、つい食べちゃう」
「聞いちゃいけないのに、耳を澄ましちゃう」
もしそのようなことで自責の念に駆られるような事がございましたら、何卒ご安心ください、人間にとってそれは恥ずべきことではございませんので。
タブーを犯したくなる人間の根源的欲求。
もしかすると、人が抱える原罪の一つやも。なんだかダークで魅力的でございますね。

少し記憶を辿ってみれば。
『混ぜるなキケン』を混ぜたがる幼少時代。
学生机にこっそり「もりそば」と刻み込んだ中学二年生の夏。
20歳になりお酒を飲めるようになった暁には、寝る間を惜しんで政治と宗教と野球の勉強をいたしました。
カリギュラ効果とともに歩んできた私のデモニック半生。うむ、奥ゆかしい。
お屋敷にはタブーが沢山ございます。
……まだまだ楽しめそうでございますね。

さて、11月にはお屋敷にて、私も考案いたしましたケーキ、きのみミルフィーユをご用意してございます。
滑らかなキャラメルクリームとサクサクのパイ生地のコントラスト。上に添えたくるみが可愛らしいアクセントでございます。
とっても美味しゅうございますので、ぜひ食べないでください!!

……あ、嫌ですね。いくらカリギュラ効果と言えど、食べないでほしい、は違います。嘘でございます。嘘。
ぜひ、絶対に、美味しくお召し上がりください。
お召し上がりいただかないと、駄目です。

あ、そう言うとカリギュラ効果的にはお召し上がりいただけなくなるんでしょうか?
やっぱり食べないでください。
あ、いや、やっぱり。

詰みました。

「この先通行止め」と言われると、ついギリギリまで行きたくなってしまいます。
長野県の人里離れた山奥より、愛を込めて。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

いまさらの紹介ですが、私荒木田、旅好きを自称することが多くございます。日本国内に限りですが、47都道府県、全政令指定都市は当然のこと、本土全ての東西南北、全国一宮、人の寄り付かぬ秘境駅などなど。
まあここまでいろんなところに足を運べば、流石に旅が好きだと自負してもばちは当たらないでしょう。

さて。
そんな旅好きには、絶対に付き纏う問題がございます。
それは、旅と旅行の違いでございます。

そう、私は旅好きであって、旅行好きではないのです。
これは別に、旅と言った方が旅行と言うよりもカッコいいから、というわけではございません。あ、いや、ほんのちょっぴりくらいはありますが。
旅と旅行は似て非なるものなのです。
とは言っても、正しい言葉の定義があるわけではないのですが。調べても、それぞれいろんな方の主張があるだけですし。

ですので恐らく、自分なりの定義を定めても許されるのではないのかと。
荒木田なりのその二つの違いを述べてみます。

旅行も旅も、実際に行われることは似通っていますね。
普段とは異なる土地に行って、何かを経験すること。それは旅行にも旅にも当てはまります。
旅行とは、観光であったりを楽しむために普段とは異なる土地に行くこと。すなわち、移動は手段であると言えます。
対して、旅は、どこかへ行くことそのものが目的であり、そこで得られた経験は副次的なものに過ぎないのです。極論、移動さえすれば、旅の目的は果たされます。

だからこそ私は、旅好きを自称するのです。
別にその先に、素敵な景色や愉快な施設、美味しい食べ物がある必要はございません。
ありふれた街並みでも、殺風景な景色でも。ただそれがそこにあるという事実を目の当たりにするのが個人的な旅の醍醐味なのです。

意外とよろしいものでございますよ。 日本地図を見下ろして、ありふれた日常を想起する、というのも。

……とは言いつつも、お写真をお見せするのであれば、素敵な景色を披露したいものでございますね。
場所は……秘密でございます。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

先日、何とはなしにお屋敷のそばを歩き散らしていた時のことでございます。
電信柱に雑に括られていた張り紙がふと目に留まりました。
「木のぬくもり溢れる新築戸建4LDK〇〇万円〜」
立地が分からないからお得感が伝わらないわ、ですとか、令和でもこんな広告が生き残っているなんて寧ろ雅ですわ、なんて感想が頭をよぎる中、最後まで私の心に残った言葉は「木のぬくもり」でございました。

木のぬくもり。よく使われる言葉でございますね。ただ、ハテ、と疑問も浮かびます。
本当にぬくもり、あたたかみがあるのだろうか、と。捻くれ者の荒木田でございますから、木のぬくもりがあふれる4LDKよりも、全室床暖房のぬくもりや最新式のAIエアコンのぬくもりの方がより良いのではないか、と思ってしまったり。

確かに、科学的な事実はございます。木材は熱伝導率がコンクリートや鉄に比べて低いですから、それらと違って触れた時にひんやりとしません。ただそれはあくまで相対的に冷たさを感じないだけであって、ぬくもり、というのとはまた違う気がします。

なんて屁理屈を並べながら色々な様相の新築戸建に思いを馳せているとしかし、言葉の真意に辿り着きました。
打ちっぱなしのコンクリートで囲まれた部屋。確かにモードでスタイリッシュではございますが、何物も受け付けないような尖った洗練さがございます。格好いいのですが、息が詰まってしまいそうです。
対して、木目調に囲まれたナチュラルなお部屋はといえば。洗練されているわけではないし、スタイリッシュでもございません。しかし、居るだけでほっとするような心地よさがございます。
まるで、ここにいてもいいよ、と伝えてくれているようではございませんか。それはなぜなのでしょう。木目の色味によるものなのか、木材の熱伝導率によるものなのか。

木のぬくもりの本質とはきっと、受容なのではないかと思うのです。何物も拒まないようなおおらかな強さ。数百年生きてきた木材だからこそ出せる強者の余裕、とでも言いましょうか。出来立てほやほやのコンクリートには出せない深みでございます。合理的な機械には決して醸し出すことのできないおおらかさ。
そんな受容こそが、ぬくもりを感じさせるのだと。

それでは私も受け入れられたい、と喜び勇んで、張り紙の下の方に記されていた電話番号にかけてみました。
ぜひ私に内見をさせてはくれませんか。そして大黒柱を抱きしめてそっと一人言ちるのです。
「嗚呼、あたたかい」と。
フフ、背後で青ざめる不動産屋の顔が目に浮かぶようでございます。お次はフローリングに頬擦りでもいたしましょうか。あ、流石にそれはよろしゅうございませんね。木々はきっと受け入れてくれるでしょうが、世間体というものは受け入れてはくれませんので。
……なんて思っていたら、耳元から声が。

「この番号は現在使われておりません」

なるほど。
機械音声というのは、冷たいですね。

何の気なしに、お写真を。
長野県は青鬼集落の青鬼神社境内より。
木々のぬくもりに溢れた静謐が心地良うございます。

日誌

フレフレ日本!
がんばれ日本!

……あ、大変失礼いたしました。
ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。
2024年は四の倍数、すなわちオリンピックの開催年であることは当然ご承知おきの通りかと存じますが、お嬢様・お坊ちゃまにおかれましてはそんなスポーツの祭典はご覧になっておりますか?

馴染みのあるスポーツからそうでないものまで。私も学生の時分にはスポーツに打ち込んでおりましたから、トップアスリートたちがそれぞれの国を代表して日々の鍛錬の成果をぶつけ合う、というこのイベントは見ているだけで血湧き肉躍る思いでございます。
どのスポーツも大変面白いもので、毎日のようにスポーツ観戦に釘付けになった結果私の身に降りかかった災難が。 そう、壊滅的な寝不足でございます。

パリと日本の時差は7時間もございますから、競技によっては、リアルタイム観戦を志せば自然と入眠時間も遅くなってしまうこともしばしば。
日々お屋敷の執務のためにあくせくしている使用人にとって、早起きも大事なお務め。つまり、惰眠を貪ることは許されないのです。結果として、皺寄せは全て睡眠時間に。
最近は専ら、重たい瞼を擦りながら書庫に蔵する書物をお掃除してございます。

そういえば睡眠に際して最近、面白い学説を耳にしました。
それは、生物にとって睡眠こそが自然な状態である、というもの。要するに、ずっと寝てばかりの堕落した生活は、社会からは問題視されこそすれ、生物学的には正しいのだ、とする論文でございます。
私は専門家ではございませんから、どれくらい信憑性のある論文なのかは存じ上げませんが、
ややもすると、胡蝶の夢こそがこの世の理として真実なのやも、と思わせるような魅力あふれる説でございます。

つい書庫でお昼寝してしまっても安心でございますね。私は自然体なのですと声を上げれば許されるやもしれませんので。
ただ、せっかく寝るのでしたら夢でも楽しみたいところ。ハットトリック、キャンキャン、ドラグレスク、ブザービート……。夢の中では体を操るなど思うがままでございます。
それでは、良い夢を。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

ぽつぽつ。ぱらぱら。ざあざあ。しとしと。

時に。雨はお好きでございますか?
おそらく、NOという言葉が聞こえてくるのではないでしょうか。
折角のお召し物が濡れてしまいましたらばその日の気分も台無しですし、太陽が見えないとなんとなく鬱屈としてしまう、というのは誰しもが抱く感情でしょう。そもそも、傘という荷物が増えるのもあまりスマートではございませんしね。
お屋敷の使用人たちも、朝から雨が降っている日は心なしか顔色が悪いように見えます。偏頭痛で頭を抱える使用人も若干名。あ、これは違う話か。
ともかく、一般的に雨というのは望まれない天気であるかと存じます。
「嫌な天気」という不名誉な称号も得ていることですしね。

さて。
そんな嫌われ者の雨でございますが、私はそんな彼らと相対した時、密かに楽しんでいることがございます。
……それは”雨音”でございます。
いや正確には”雨音を表現する”と言った方が適切でしょうか。

窓や屋根、傘や地面を叩く雨音に耳を澄まし、その雨音を自身の素からまろび出たオノマトペで表現するのです。
それの何が楽しいのか。
一言で言うと、自分を再認識する、自分探しの一種でございます。
耳というデバイスで集音し、鼓膜を震わせた雨音と言う波を、脳というCPUで理解し、判断し、アウトプットする。
まさにその時、既存の価値観に囚われない、自身の、何者にも侵されない絶対的で根源的な判断を持って、表現する。

本当に、
小雨はぽつぽつと聴こえるでしょうか。
驟雨はざあざあと響いているでしょうか。
霧雨はしとしとと鳴っているでしょうか。

言語という文化を可能な限り絞り出し、最後に残った出涸らしにこそ自己は眠っているのではないでしょうか。
そしてその自己を知ること。他を知り己を知る、というのとは、ややニュアンスが異なりますが、そうやって暗がりに潜む自分の深層意識を手探りで感じるまたとない機会でございます。

日本語には多くオノマトペがございますが、とはいえこれは雨音に限った話ではなく。
あまり犬は「わんわん」とは鳴きませんし、咀嚼音が「もぐもぐ」と聞こえることもございません。心臓が「ドキッ」と鳴ればそれは恋ではなく不整脈ですし、「シーン」と静かな環境は、果たしてそれでいいのかと首をかしげたくなります。
日常のいたるところに楽しみは潜んでおりますね。

というわけで、今年の夏はこっそりと書庫を抜け出して、日本中のありとあらゆる川の上流より桃を流し、実際に「どんぶらこ」と聴こえるかをセルフ自由研究として掲げてございます。(久保と小瀧を連れて行きます。無理矢理にでも)
お嬢様、お坊っちゃま。川に洗濯に行く際は何卒耳をお澄ましくださいませ。

ああそれから。 7月より、当家のギフトショップにて、くるみを使用いたしましたリーフパイをご用意してございます。
さくさくのリーフパイにカリッとくるみがアクセント。 ……オノマトペが適切かどうかは、ぜひお試しいただければ幸いでございます。

 

 

 

こちら、北海道は大雪山国立公園より。ぼろぼろの旧士幌線はしんしんとしたノスタルジックの中にひっそり潜むオカルティズムが心地良うございます。
もふもふの蝦夷栗鼠もリーフパイを食べに来てくれると嬉しゅうございますね。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

先日、春の陽気に誘われて、手のひらサイズの図鑑を片手にお散歩に出かけた時のことでございます。
桜の花弁はとうに散り、街はすっかり緑に覆われており夏と遜色ない青青とした風景が広がっておりました。

しかし、春の風物詩と言えば当然桜だけではございません。足元を見やればカラフルな花々が小さくも勇ましく咲き誇っております。
春を彩る彼らに目を向けないのはなんとも勿体無い。
図鑑に曰く、ハルジオン、ヘビイチゴ、スミレ、カキドオシ、シャクナゲ、ライラック……。
上に下に東に西に、360度五感全てで四季を味わうのが日本人としての粋でございましょう。

さてそれでは、私も日本人として春を味わい尽くそうではございませんか。ちょうど足元に白いふわふわの綿毛がぽつねんと佇んでおります。根本からぶちっともぎ取り、口元に運んでフゥッと息を吹きかけました。すると、かわいらしいたんぽぽの綿毛がふわふわりと風に乗って飛び立ちます。
ゆったりと空を揺蕩うかよわいもこもこ。
メルヘンなその様子に、なんだかうっとりしてしまいます。

アラ、わたくし、きっと、とってもロマンチックだわ。

ねぇたんぽぽちゃん、あなたの名前はなんていうのかしら。

セイヨウタンポポ

外来種でございました。
環境省指定要注意外来生物であり、侵略的外来種ワースト100にも名を連ねるインベーダーとのこと。
漢字がいっぱいで強そう。メルヘンの対偶にございます。
それにしても荒木田、不覚でございます。まさか外来種の繁茂に手を貸していたとは。知らぬ間に犯罪の片棒を担がされておりました。しかしもう、こうなっては後の祭り。風に乗った種子たちは元気いっぱいにその勢力図を拡大していくことでしょう。うまく奴らの手のひらの上で転がされたようで悔しゅうございます。

さて。
セイヨウタンポポをはじめとして、日本のみならず世界中で外来種というのは問題になっているようで。その地にはもともといなかった種の、すなわち、外来の生物。元来その地に住んでいた生物の生息領域を脅かしたり、よろしくない波及効果が多々あるとのこと。
そんな外来種問題に踏み入ってみると、動植物に罪はない。真に悪いのは人間なのだ、などという言説をちらほら見かけます。

人類の目覚ましい科学の発展により、世界は小さくなりました。海を越えることも空を飛ぶことも難しくない。然らば、そんな人類の文明に肖って勢力拡大する輩というのは、しかし、諸悪の根源は人類である、という理屈でございます。

こう言った理屈に、なるほど確かにと納得する一方、それは言い過ぎなんじゃないかと思う私もおります。
だって、文明の発展がなければ私は現在の幸福を享受できていないわけでございますから。そして、それらは自然選択の結果生まれたものでございます。ホモ・サピエンスが進化の過程で”自然に”生み出してきた文明という技術を、地球が生まれて以来数十億年紡がれてきた”自然”という枠組みから外すのはいささか傲慢ではございませんか。

イデオロギーの問題でございますから、どっちが正解とかはないのでしょうが。
どっちつかずもまた良しにございます。のらりくらりと不安定でまろやかに、荒木田は素敵な世界を願うばかりではございます。

 

 

 

 

 

というわけで。
きつね。北の国より。
荒木田でございました。

日誌

ご機嫌麗しゅうございます、荒木田でございます。

春を彩った桜の花びらも散り、街も山もお屋敷も、新緑初夏の様相を呈してございます。

今年は冬が長く続いたこともあり、例年に比べ桜の開花が遅うございました。春の風物詩をご覧にはなりましたか?

私はちらと散歩で目にやった程度でございますが、やはり桜は好い。寒く寂しい冬の終わりと、暖かく優しい春の到来を告げるやわらかいピンク色は、どうにも理屈ではなく、自身のDNAに刻まれた日本人の心を直接鷲掴みにするような魅力を、感じてございます。

ご存知でしょうか、奈良県吉野山は旧くから桜の景勝地として有名でございます。私、実は吉野山を春に訪れたことがございませんで。

昨今オーバーツーリズムが問題視される日本の諸観光地ではございますが、弘法大師も楽しんだであろう桜を、一度でいいから拝んでみたいと存じております。

ただ、桜の開花という一年に一度しかなく、ややタイミングが読みづらいイベントで、ピンポイントで遠出をする、というのはなかなか難しく。折角訪れても桜がまだ咲いていなかったり、メイストームで散り散りになってしまったりすれば、がっくりと肩を落とす他ありません。

マアそういった失敗も旅行の醍醐味ではございますが。

一口に桜といっても、様々な姿を見せてくれるのも彼等のいじらしいところでございます。満開の花々は当然のこと、もう今にも咲くぞという蕾の可愛らしさには思わず頬が緩みます。五分咲きの桜の木を見て満開の姿を想像しながら日本酒を啜るのも風情がございますし、緑とピンクがマーブルに見える葉桜の醜さも、そんな自分を受け入れよという傲慢さが見えるようで、私は嫌いではございません。

さて。

桜の美しさを始め、そういった極めて日本人らしい美徳や情念について、これを本質論的に本居宣長が提唱した概念として『物のあはれ』というものがございます。

物を見て、物に触れ、物を感じる。そうして呼び起こされる様々な情感。それこそが『物のあはれ』を知ることであり、それこそが一切の事物の正しい認識方法なのだといいます。

私はシャレオツなヤングですので、そんな概念をナウい言葉で言えば「エモい」がそれにあたる言葉ではないかと。エモーショナルこそが、実在である。やや曲解ですが、お許しください。

得てして、テクストは単純化が愛されるものですから。

何とは無しに、お写真を。

島根県は美保関にて。

 

 

 

 

 

散りゆく桜のようなエモーショナルを少しでも感じていただければ幸いでございます。