枯れない愛、らしいですね!

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。隈川でございます。

数ヶ月前、私の部屋にサボテンがやってきました。名前はエリオカクタスのエリオくん。

どうやら調べてみましたところサボテンは水やりの頻度が季節により異なるようで、春に差し掛かったこの頃では、ほんの少し彼(?)と向き合う機会が増えました。

よく、植物に話しかけると良い影響があるという話を耳にしますので、水をやりながら人と接するのと同じように話しかけるようにしております。

『花をつけようと焦らないでくださいね』

『美しい花は確かに素敵ですが、それが貴方の全てではありません。そのままの貴方も充分に素晴らしいのですよ』

『私たち人間も目に見える成功だけが人生の全てではありません。幸せの形は自分自身で選ぶものです』

『もしも貴方が萎れても枯れても、私は見捨てたりしません。最後まで側にいますから』

『…って、あ、デリカシーのない例え話でしたか。もちろん、そんなことにならないようにお世話も頑張ります!それにしてもこの窓辺、日当たりが今ひとつなんですよね。そういえば、貴方の花言葉ってー…』

エリオくん、私の一方的な話が長くてうんざりしてるんじゃないか心配になってきました。
「この人間、サボテンに話しかけ過ぎでしょ…人間の友達いないんだな」なんて思われているかもしれません。

花が咲いても咲かなくても良いので、健やかな気持ちで育ってくれたらと願うばかりでございます。

隈川

時間旅行

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。隈川でございます。

お嬢様はタイムスリップをなさるとしたら過去と未来のどちらにおいでになりますか。

現実的ではない戯言と思われるかもしれませんが、たまに大旦那様のおともを仰せつかり馬車に乗っておりますと「このまま馬が加速していけば蹄が炎の轍を作り時をかけるのではないか」と夢想することがございます。(御者がそのような荒い運転をするとは思えませんが)

ちなみに、お聞きしておいてなんですが私はなんとも決めかねます。

確かにいっそのこと消えてしまいたいような失敗も重ねて生きて参りましたが、それを今更やり直そうという気にもなりませんし、逆に未来になんて行こうものなら便利な技術に骨を抜かれ現代に帰りたくなくなってしまうでしょう。

…強いて申し上げるならば、恐竜を見に行きたいくらいでしょうか。

あ、そうだ。
お嬢様がおいでになる方について行くことにいたしましょう。お嬢様がいらっしゃる時代が私にとっての現代とすれば悩むこともございません。

さぁ、お嬢様。いつどこへ参りましょう。

隈川

イト

ご機嫌麗しゅうございます、隈川でございます。

運命の赤い糸…
縁結び…
絆の綻び…

関係を糸に喩えた言葉をよく耳にします。なるほど、確かにと思わされますね。

私は常々、人と人との関係は編み物にも似ているのではないかと存じます。

一箇所、最初の結びを作るのは簡単です。

しかし、様々な場面で増えていく糸が絡まってしまわないように重ねていくためには、どちらかの糸を下に潜らせる必要があります。

特に隙間のない強固な繋がりを築くには、丁寧な思いやりを持って順番に互いを尊重する必要があるのではないでしょうか。

ときには間違い、ほつれてしまうこともあるかもしれませんが、それをどこまで気にするかはその方次第。

ほつれを直すためには一度どこが絡まっているのかを解明し、ほどき、編み直さなくてはなりません。

それには手間や時間がかかる上、もしかしたら同じ形には編み直せないかもしれません。

それでも、諦めず編み続けた先には元の形より素敵な仕上がりが待っている可能性もございます。

逆に少しのほつれくらい気にしない、というのもある種の解決策でしょう。
私はわりとそういうタイプです。

一番悲しいのは小さなほつれや綻びが気になって、編むことを諦めてしまうこと、糸を切ってしまうこと。

例えみっともなくほつれ、穴が空いたセーターであったとしても裸でいるよりはよほど温かいはずのに。
(もちろん、自身を締め付け苦しめるような不要な糸に関しては躊躇わず切ってしまうこともときには大切ですが)

いつでも相手の「意図」を正しく感じ取りたいものでございますね。

隈川

日の名残などを見る度に少し落ち込む

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。
隈川でございます。本年も宜しくお願い申し上げます。

私ごとながら1月10日で執事歌劇団に入団してから満6年が経ちました。

ステージの上であろうと屋敷であろうと、いついかなるときも使用人であることに誇りを持って務めてきたつもりでございます。

使用人として生きていくと決めてから、英国文化、使用人の歴史や伝統、屋敷でのフットマンとしての在り方を考え続けて参りました。

しかしながら、私が描く理想の使用人像と現実の自分自身には大きな差異があり、それは私自身の本来持っている気質の部分に由来しているようにも存じます。

使用人かくあるべし、という美学に羨望を抱けば抱くほどにコンプレックスは生まれる。

それでも、自分なりのやり方でこれからも使用人としての道を歩んで行くつもりでございます。

まだまだ未熟な手前ではありますがどうかこれからもお傍に置いて下さいましたら嬉しゅうございます。

…あと10年くらい努めたら少しは理想に近づけるのでしょうか。

隈川

フットマンの仕事

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。
隈川でございます。

気が付けば年の瀬、2019年も終わりを迎えようとしております。

この時期は屋敷の中も忙しない雰囲気で、使用人たちも年内に納めなくてはならぬ執務や給仕に奔走しております。「師走」ならぬ「使走」とでも申しましょうか。

特にフットマンたちはあれやこれやと大忙しでございます。

…え。
「フットマンたちはいつもはどんな仕事をしているの?」でございますか。

…左様でございますね。
一般的な屋敷ではフットマンと申しますと主人の外出時ご同行したり、客人の来訪時に不自由がないよう滞在中の手伝いをしたり。

他にもヴァレットや執事の小間使いのようなものと認識されているかと存じます。

(そういえば大昔のイギリスでは半ズボンで馬車の横を並走していたと聞きますから、運動嫌いの私からすると現代に生まれて本当に良かったと感じざるを得ません。)

しかし…最近、当家の自分以外のフットマンたちの執事日誌を拝読し返してみますと他の屋敷ならばフットマンには触れることも許されないような内容の仕事を一任されている者も多いようですね。使用人界隈ではかなり特異な環境でございます。

大旦那様のお人柄からなのか、使用人たち自身が考え、得意な仕事をフレキシブルに分担することを許されているようにも存じます。

それを踏まえ鑑みますと
「うわっ…隈川の執務内容、狭すぎ…?」
というどこかの広告のような不安を覚えます。

日々のティーサロンでのお嬢様の身の回りのお世話、ファーストフットマンとしての教育係、それ以外では課外活動として執事歌劇団で任されております執務ぐらいです。

思い返しますと【ティーサロン】【使用人寮】【講堂】を行ったり来たりの毎日。

私、凡そ6年以上フットマンとして屋敷に在籍しているにも関わらず、未だに敷地内で足を踏み入れたことのない場所すら沢山ございます。

例えば庭園の奥の森、当家抱えの職人たちの工房、大浴場、…etc.
ああ、実は馬房にも踏み入ることが少のうございます。(お恥ずかしながら馬車馬たちも名前と毛色が一致しているのは金澤の可愛がっている「田吾作」と屋敷に来たばかりの頃に門前で蹴られかけた「エリザベス」ぐらいのもの。他の馬は正式名称を知らぬので勝手に渾名で呼んでおります)

逆によく足を踏み入れる場所ですと、図書室は調べ物の際に重宝しますし、庭師とは世間話をしたり髪を切って貰ったり、あと現在は使われていない旧リネン室にこっそり毛布を持ち込んで時々包まってお昼寝をしたり…あ、これは他の使用人たちには内緒ですよ。

…そうだ、お嬢様!
来年はお嬢様のお時間のあるときに、こっそり一緒に屋敷内を探索してみましょうか。

どうか来年も宜しくお願い致します、お嬢様。

隈川