内と外

ご機嫌麗しゅう、お嬢様。
隈川でございます。

人は幸せなときには笑顔になり、明るい声色でポジティブな言葉を選びます。
反対に辛いときには顔を歪ませ、暗いトーンでネガティブな話をします。

本来、感情と表情、声色や言葉はリンクしているのが自然な状態でございます。

これは一方通行に内側が外側に漏れ出ているというわけではなく、逆もまた然り。外側も同じように内側に影響を与えているのです。

心が身体を動かし、身体もまた心を動かす。つまり、振る舞いから自分の気持ちをある程度コントロールすることができるということでございます。

実際に、なんとなく心が沈んでしまうときでも、口角を上げて、いつもより少し高めの音色で悪い言葉を避けて話していると心の方がバランスをとり、幸せな気持ちが蘇ってきます。

とはいえ言うは易し、行うに難し。
心がけてはいても、習慣として身につけるのはなかなか大変です。

私自身もともとが感情を表にあらわすのが得意な性格ではなかったので屋敷に来てから少しずつ頑張っている部分です。これを自然にできる人に尊敬の念をいだきます。

自分がプラスであるべきではないという考えは一度手放して、望む姿に素直でいることがとてもとても大切です。

向きたい方向にきちんと体を向けてあげる。これができないと望まない方にばかり進んでしまいます。案外気がつかないうちに内側と外側はアンバランスになってしまうものですから。

 

例えば、素敵なものに出会ったとき。
他の何かを比較に出して乏したり傷つけないよう、明るくシンプルな言葉、声色で笑顔を浮かべて褒める。

例えば、いらだちを抱えてしまったとき。その感情の根幹を見つめ、自尊心や格好つけたい気持ちを捨てて自分の心の醜い部分をまず認める。そのうえで優しい言葉、穏やかな表情落ち着いた口調を崩さず話をする。

なかなか思った通りにいつもできるわけではありませんが、そうした振る舞いは自分自身にとっても周りにいてくれる人にとっても良い未来を運んできてくれる、そう信じております。

お嬢様ももし内側と外側のバランスが崩れてしまいそうなときには、よろしければお試しくださいませ。

隈川

言語化

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。
隈川でございます。

現代はインターネットやソーシャルネットワークサービス、本、雑誌など様々な媒体から情報を気軽に享受することのできる世の中でございます。

しかし、そんな風に文字を読み、声を聴く機会は増えているはずなのですが、反比例に「自分の言葉」で話す方は少なくなっているのではないかと感じています。

自分の思っていることを、すでにどこかの誰かが扱い易い言葉にカテゴライズしてくれていることが多いからでしょうか。

例えば
心が動く体験や景色は全て「エモい」
胸を打たれるときめきは全て「カワイイ」
個性的な感性を持つ人は「クセが強い」

ぱっと言語化できて大変便利ですね!
実際にこういった流行りの便利な言葉たちは人と意見をコンパクトに共有するときに大変便利ですし、私も決して否定はいたしません。現代の素敵な言葉たちです。

ただ、自分の中にしか存在しないはずの大切な気持ちがどこかの誰かの言葉の中でぼやけてしまうのは、とてももったいないことのような気もするのです。

誰かが言語化してくれた便利な言葉だけに頼らず、まとまらなくても伝えきれなくても自分の中から生まれた言葉を大切に伝えてゆけたらとても素敵ですよね。

私は拙くても気持ちのこもった言葉が好きです。エモい?と思います。

隈川

曇天の夜明け

お嬢様。

夜明けがいつも明るいとは限りません。

雲が塞ぐ暗い朝もあれば、目に染みるほどに星が明るい夜もございます。

幸福の中で生まれる苦痛や、苦しみの中で磨かれる道徳心があるように。

白い画用紙だから黒のインクは美しく、黒いサティーンは光の白さを顕にするのです。

そのときどきに置かれた環境の中で気がつくことのできるコントラストを記憶に留めておきたいと思う今日この頃でございます。

あとはスイーツバイキングの中で渋いお茶が欲しくなる…とか?

隈川

恵まれた0

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。
隈川でございます。

初夏の日差しや風が心地良い季節になりましたね。梅雨が来るまではこの過ごしやすい気候を満喫したいものです。

梅雨で申しますと、雨が降る日というのは窓から眺めるには叙情的な思いを膨らませてくれて好きなのですが、外出するとなると話は別。傘で手は塞がり靴に水が染み、折角きっちり整えた髪型も乱れてしまいます。

ところが、そんな鬱屈とした雨の不自由も晴れている日には忘れてしまうもの。

不自由のないフラットな状態というのはその中にいると気が付きにくいもの。

自分の過ごす毎日が恵まれた0の中にあることを思い出すのも、ときには大切なのかもしれませんね。

 

ただ、大雨の中を開き直ってびちょびちょになるのも案外気持ちが良いもので、マイナスを楽しむことができる人間も中にはおりますがそれはまた別のお話。

隈川

悩みの種

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。
隈川でございます。

ようやく本格的な春が訪れ、街の空気も引き締まったモノトーンな雰囲気から一転!柔らかさを含んだパステルな暖かさに包まれております。

4月というのは世間一般的に申すと始まりの季節。お嬢様もご環境が今までと変わり悩んだりすることもあるのではないでしょうか。

大丈夫です!お嬢様、ご心配なさらず。
この隈川がついております!
私も10年同じ環境に勤めておりますが、いまだに悩みはつきておりませんからね♪

いや「それ、全然大丈夫じゃないでしょ」というお顔をなさらずどうかお聴きくださいませ。

私は思うのです。
悩みごとというのは、良い方向に進みたいと心から願えることに対して生まれる成長の兆しだと。悩んでいる時点でまだ諦めていないということです。

もちろん大前提として心の健康が第一ですから、過度に悩みすぎるのは良くありません。辛くなったらすぐ親しい人に吐き出しましょう。

ここで申しあげる「悩み」は「熟考」のことだとお考えください。

 

例えば、社会勉強などでは一つのことだけに熱心に取り組むということがなかなか難しいものです。

一つを大切にした働きでうまくいっても、他方から別の目線で辛辣なご意見を頂戴する、なんてこともあるでしょう。

そんなときに「なんて理不尽なんだろう」と憤るのではなく「じゃあ、どうすれば両方うまく良くんだろう」と生まれた悩みにはとても価値がございます。そこで考え抜いたことがそのまま自分の力になるのです。

そして、そこで悩んだ結果うまくいっても、うまくいかなくても
「次はどうしたらもっと良くなるだろう」「視野が狭まっていないだろうか」「そもそもこの環境に固執するよりも場所を変えた方が良いのか」と新しい悩みは無限に生まれ続けます。

ここで大切なのは【どんな悩みをどのように乗り越えたか】ということを自分で覚えておくことです。そうすることで自信とともに次を乗り越える武器が沢山増えていくのです。

 

私もメンタルが強い方ではございませんので、いつも悩みながら生きていますが悩んだ分だけ自分を信じられるようになったように存じます。

きっとこの調子ですとお爺さんになっても変わらず悩みながら生きているでしょう。でも、それで良いのだと最近は思います。

なので、悩むことがあったら人に相談することももちろんですが自分の中で沢山沢山考えてみてくださいませ。その自分自身の思考と向き合った時間には未来の可能性がいっぱいに詰まっております。

悩みの種はいつか喜びの花を咲かせるはずです。

お嬢様、良い春を!

隈川

くちだし

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。
隈川でございます。

私は性格柄、余計な口出しをしないということにとても難しさを感じます。

自分から見て「恐らくうまくいかないこと」に挑戦しようとしている人に対し、老婆心ながら自身の経験則に基づいた改善案を口出ししてしまうことが多くございます。

しかし、こちらは良かれと思っても、それは自分自身で失敗したときに初めて本当の意味で理解できることだったりもするので、相手にとっての学びのチャンスを奪う行為にもなりかねないわけです。

なので最近は思い直してなるべく他人事には口を出さず、信じて見守ることに努めております。私自身も色々な失敗から沢山のものを得ておりますから。(現在進行形で)

心配はしつつも、ちゃんと信頼する。
円満な人間関係において必要なことに存じます。

隈川

価値観の解像度

ご機嫌麗しゅうございます、お嬢様。
隈川でございます。

スポーツ、芸術、娯楽、仕事。
どのような分野であれ興味のあることにのめり込むと上達したいという欲が生まれ、そこから経験や学びへと繋がってゆきます。

そしてそこから継続して努め、ある程度の基礎を修めたときに、ふとその分野について「価値観の解像度」があがっていることに気がつきます。

なんとなく感じていたことについて知識に基づいた説明ができるようになり、良し悪しの基準が鮮明に見えるようになるのです。これは大変素晴らしいことでございますね。

ただ、ここで気をつけなくてはならないのは、この上がった「価値観の解像度」を他人に押し付けてはいけないということ。解像度の高さ=その分野への愛情ではないということを忘れてはいけません。

例えば【小さな子どもが親の誕生日に初めて焼いたケーキ】と【一流のパティシエが長年の月日をかけて完成させた至高のケーキ】どちらに価値があるかと言われてもそれは立場によって変わるのです。

子どもの成長を感じる親の立場からすればこんなに美味しいケーキは他にないでしょうし、一流パティシエのケーキを楽しみに毎日を頑張ってきたお客さんからすればその日のケーキは世界一美味しいと思えるはずです。

そこに洋菓子を毎日食べ学び舌の肥えた他人がやってきて「その子どもの焼いたケーキは生焼けで良くないよ」とか「確かに一流の腕前だけど本場のパティスリーでもっと良いケーキを食べたことがあるよ」なんてことを言ったらどうでしょう。私はあまり良くないと思います。

どうしてこのようなことを言ってしまう人がいるのかというと、決して悪い人だからというわけではなく『自分はこんなにケーキを愛しているのに、なにもわかってない人がいる』ということが許せなくなってしまっているのです。

その人も確かにケーキを愛し【価値観の解像度】が高いのかもしれませんが、本当に大切なことは逆にぼやけて見えなくなっているように思います。

自分自身でもときどきこうなりかけてしまうことも自覚しております。気をつけなくてはいけませんね。

何かに夢中になったとき、傾倒した年月や突き詰めたクオリティは自分がその分野をもっと愛するための物差しとして使うことができますが、決して他人と他人、そして他人と自分を比べるためのものではないということを忘れてはいけないのです。

…ケーキの例えを出していたら食べたくなってきましたね!お嬢様、本日は何味になさいますか♪

隈川